前回にもふれましたが、今回は旧鉄砲鍛冶屋敷を見ましょう。紀州街道から二本西に歩いた道にその屋敷はあります。
天文12(1543)年、九州の種子島にポルトガルから伝わった鉄砲(火なわじゅう)を造る技術を、橘屋又三郎が堺に持ちかえったのが、堺の鉄砲造りの始まりです。
時代は戦国時代の終わりごろ、国のとり合いをしていた戦国大名たちは、この鉄砲を買うようになりました。今まで弓矢や刀で戦ってきたのですが、鉄砲により戦い方もかわってきました。とくに織田信長が武田勝頼軍とたたかった長篠の合戦では、三百ちょうの鉄砲を使って武田軍をやぶったことは大きいでしょう。ここでも多くの堺の鉄砲が使われていたことでしょう。
この堺の鉄砲鍛冶屋敷は、江戸時代からつづく鉄砲鍛冶井上関右衛門さんの屋敷で、わが国の町屋としても最も古い建物の一つであるといわれています。また、鉄砲を造っていた場所がそのまま残されている建物としても、たいへんめずらしいものです。写真でもわかるように、間口(道に面した長さ)が長く12間半(22メートルあまり)もあります。
建物の中には、火縄銃や大筒、御用札などが残されています。とくに大きなふいごはとても迫力のあるものです。「ふいご」というのは、鉄をとかして鉄砲の形にしやすくするため、火の温度を上げて空気を多くおくるための道具です。「大きなふいご」ということは、それだけ多くの空気が一気に送れるので、より温度を高くすることができるのです。
江戸時代には、このあたりに鉄砲鍛冶が何軒も集まっていたのです。