第7回で、「織田信長」を取り上げたので、今回と次回の二回でも織田信長と堺について取り上げてみましょう。
安土桃山時代(今から四百数十年前)の少し前のことです。戦国時代と言われるほど、全国的に戦に明けくれていました。京の都(現在の京都市)も焼け野原となっていました。上杉謙信や武田信玄などの戦国大名たちが各地でいきおいをのばして、各地をおさめていましたが、たがいに領地のうばい合いをしていたのです。
しかし、堺の町だけはこの戦国時代と切りはなされて、平和なくらしをしていました。当時、堺に来た宣教師のガスパル・ビレラが本国に送った手紙には、堺の町についてこう書かれていました。
「堺の町は、たいへんお金を持っていて、住民多く、大きな商人が多くいます。そして、ベニス(イタリアの都市)のような政治をしています。日本国中で戦いが行われていても、この町に来ると、敵も味方も友人のように話し合っていて、この町の中で戦うことがないので、日本国中で堺の町ほど安全なところはありません。
それは、町の西の方が海で、ほかの三方は深い堀でかこみ、堀にはいつも水がたたえられ、橋がかかり、門があって番人がいて、戦争がおこると門をとじてしまうからです。
あらそいを起こすときは、それらの者全員をつかまえてばっします。しかし、敵どうしが町の外に出ると、そこから石を投げたほどのところで会っても殺し合いをします。」
外国人にも分かるほど、こんなにも堺の町は安全だったのです。なぜ、堺の町だけは、戦から切り離されて平和だったのでしょう。それは、ビレラの手紙にもあるとおり、堺の町の周囲には深い堀があったこと、戦争があると門をとじてしまうこと、堺の町は大変お金持ちであったこと、さらには、堺の町で鉄砲(火縄銃)をつくっていたこと、そして、お金持ちだった理由として外国との貿易で多くのお金を稼いでいたこと、珍しい外国の品物が輸入されていたことなど、さまざまあるでしょう。
この堺の町もやがて、織田信長にねらわれることになります。続きは次回に。