11 東洋のベニス・堺

 第7回で、「織田おだ信長のぶなが」を取り上げたので、今回と次回の二回でも織田信長と堺について取り上げてみましょう。

 安土あづち桃山ももやま時代(今から四百数十年前)の少し前のことです。戦国せんごく時代と言われるほど、全国的にいくさに明けくれていました。京の都(現在の京都市)も野原のはらとなっていました。上杉うえすぎけんしん武田たけだしんげんなどの戦国大名だいみょうたちが各地かくちでいきおいをのばして、各地をおさめていましたが、たがいに領地りょうちのうばい合いをしていたのです。

 しかし、堺の町だけはこの戦国時代と切りはなされて、平和なくらしをしていました。当時、堺に来た宣教師せんきょうしのガスパル・ビレラが本国に送った手紙には、堺の町についてこう書かれていました。

モンタヌス日本誌のさし絵:堺市図
(堺市博物館より)

 「堺の町は、たいへんお金を持っていて、住民多く、大きな商人が多くいます。そして、ベニス(イタリアの都市とし)のような政治せいじをしています。日本国中でたたかいが行われていても、この町に来ると、てき味方みかたも友人のように話し合っていて、この町の中でたたかうことがないので、日本国中で堺の町ほど安全なところはありません。

 それは、町の西の方が海で、ほかの三方はふかほりでかこみ、堀にはいつも水がたたえられ、はしがかかり、門があって番人ばんにんがいて、戦争せんそうがおこると門をとじてしまうからです。

あらそいをこすときは、それらの者全員をつかまえてばっします。しかし、てきどうしが町の外に出ると、そこから石を投げたほどのところで会ってもころし合いをします。」

 外国人にも分かるほど、こんなにも堺の町は安全だったのです。なぜ、堺の町だけは、いくさから切りはなされて平和だったのでしょう。それは、ビレラの手紙にもあるとおり、堺の町の周囲しゅういには深い堀があったこと、戦争があると門をとじてしまうこと、堺の町は大変お金持ちであったこと、さらには、堺の町で鉄砲てっぽうなわじゅう)をつくっていたこと、そして、お金持ちだった理由として外国との貿易ぼうえきで多くのお金をかせいでいたこと、めずらしい外国の品物が輸入ゆにゅうされていたことなど、さまざまあるでしょう。

 この堺の町もやがて、織田信長にねらわれることになります。つづきは次回に。

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