12 織田おだ信長のぶなが自治じち都市とし

 前回は、我が国の戦国時代に、堺の町だけは平和だった話をしました。しかも堺の町は、会合かいごうしゅうという三十六人の豪商ごうしょうたちによる自治を行っていました。そしてそこに織田信長の登場とうじょうです。

 全国をおさめたいと考えていた信長は、えいろく11(1568)年、足利あしかがよしあき将軍しょうぐんにして念願ねんがんきょうの町に入るとともに、お金持ちの堺の町に目を付けて、堺の町をおさえて自分の力を広くおよぼせるようにするために、まずぜにとよばれる軍資金ぐんしきん2万がん要求ようきゅうしてきたのです。現在のお金では数おく円にもなるでしょうか。今まで、堺の町にこんな要求をしてきた戦国大名はありません。

自治都市堺の街並模型
(堺市博物館より)

 堺の町の代表である会合衆は、この信長の要求に対して当然とうぜんのように拒否きょひをしました。自分たちの自治がくずされることは、大商人としてのプライドをてることにもなってしまいますし、自分たちの力でかせいできたお金をみすみすいくさなどに使われてしまうことは、みとめがたいことだったでしょう。でも信長はあきらめずにふたたび、要求してきました。会合衆たちは相談そうだんかさね、大坂の平野ひらのごうに、共同で信長の要求を退しりぞけ戦おうと、手紙を送っています。

 でも、会合衆の中の今井そうきゅうだけは、織田信長の要求を受け入れないと堺の町をほろぼされると思って、ひそかに大事で高価こうかな茶つぼをおくって信長との関係をむすぶとともに、会合衆をせっとくしました。結局けっきょく、会合衆は信長の要求をのんで2万貫を支払しはらったのです。

 次の年には、堺の町の後ろだてとなっていた三好みよし三人さんにんしゅう山城やましろ桂川(現・京都)の戦いで信長にやぶれ、堺町は実質的じっしつてきに信長のものとなったのです。

 元亀げんき元(1570)年、松井ゆうかんが堺政所まんどころとしてけんされてから、堺は、信長に完全かんぜんにおさめられてしまいました。

 自治都市として長年にわたって栄えてきた堺の町は、そのいきおいもそがれ終えることになりました。

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