前回は、我が国の戦国時代に、堺の町だけは平和だった話をしました。しかも堺の町は、会合衆という三十六人の豪商たちによる自治を行っていました。そしてそこに織田信長の登場です。
全国をおさめたいと考えていた信長は、永禄11(1568)年、足利義昭を将軍にして念願の京の町に入るとともに、お金持ちの堺の町に目を付けて、堺の町をおさえて自分の力を広くおよぼせるようにするために、まず矢銭とよばれる軍資金2万貫を要求してきたのです。現在のお金では数億円にもなるでしょうか。今まで、堺の町にこんな要求をしてきた戦国大名はありません。
堺の町の代表である会合衆は、この信長の要求に対して当然のように拒否をしました。自分たちの自治がくずされることは、大商人としてのプライドを捨てることにもなってしまいますし、自分たちの力でかせいできたお金をみすみす戦などに使われてしまうことは、認めがたいことだったでしょう。でも信長はあきらめずにふたたび、要求してきました。会合衆たちは相談を重ね、大坂の平野郷に、共同で信長の要求を退け戦おうと、手紙を送っています。
でも、会合衆の中の今井宗久だけは、織田信長の要求を受け入れないと堺の町をほろぼされると思って、ひそかに大事で高価な茶つぼを贈って信長との関係を結ぶとともに、会合衆をせっとくしました。結局、会合衆は信長の要求をのんで2万貫を支払ったのです。
次の年には、堺の町の後ろだてとなっていた三好三人衆は山城桂川(現・京都)の戦いで信長に敗れ、堺町は実質的に信長のものとなったのです。
元亀元(1570)年、松井友閑が堺政所として派けんされてから、堺は、信長に完全におさめられてしまいました。
自治都市として長年にわたって栄えてきた堺の町は、そのいきおいもそがれ終えることになりました。