下の写真は、南海本線堺駅南口の南海バス停前におかれている南蛮船の銅像です。ちょうどフェニックス通りぞいにあります。
この南蛮船は、堺が中世の自治都市だったころに、堺の湊に南の国からこうしん料や香木、薬品、ガラス製品などのめずらしい品物を運んできました。時には、キリスト教の宣教師もやってきました。現在の大阪湾に入って堺の湊の沖に船をとめました。堺の船乗りたちは、小舟で南蛮船まで行き、多くのめずらしい品物を積みこんで、湊に運びました。何度も南蛮船と湊とを往復したようです。商人たちは、運んだ品物を湊のそばにある倉庫に入れました。この倉庫の持ち主が、納屋衆とよばれる人たちです。
なぜ現代のように、湊に直接船を着けなかったのでしょう。当時の湊周辺の海底はあさく、大きな船は入れなかったからです。漁村を少し大きくしたほどの湊を想像してみてください。せいぜい小舟が着くはしけほどの設備だったのでしょう。そのため、南蛮船は沖合に停泊したのです。この小舟で運んでいる様子は、「堺浦南蛮交易風俗図」にも描かれています。
ところで、「南蛮船」と言いますが、我が国の南の国から来たのではありません。ヨーロッパのポルトガルという国が仕立てた船です。ただ、現代のような大型船でしかも蒸気船ではありませんから、長旅はとても無理です。インドのゴアや東南アジア(タイやフィリピンなど)、中国などからやってきているのです。でも、日本に向かうのはどうしても東南アジアの方からになりますので、南方つまり南の国からやってきた船ということになるのでしょう。
また、堺の町からも船を仕立てて南の海に出かけて外国の品物を多数堺の湊に運びこみました。風向きにしたがって船を出したり帰ってきたりしたので、その風のふく季節で、時期が決まります。そろそろ戻ってくる時期には、堺の人々が海をながめながら、船を待っていたのです。