13 堺の町と南蛮なんばんせん

 下の写真は、南海なんかい本線ほんせん堺駅さかいえき南口の南海バスてい前におかれている南蛮船の銅像どうぞうです。ちょうどフェニックス通りぞいにあります。

南蛮船像

 この南蛮船は、堺が中世ちゅうせいの自治都市だったころに、堺のみなとに南の国からこうしん料や香木こうぼく薬品やくひん、ガラス製品せいひんなどのめずらしい品物をはこんできました。時には、キリスト教の宣教師せんきょうしもやってきました。現在の大阪わんに入って堺の湊のおきに船をとめました。堺の船乗ふなのりたちは、小舟こぶねで南蛮船まで行き、多くのめずらしい品物をみこんで、湊に運びました。何度も南蛮船と湊とを往復おうふくしたようです。商人たちは、運んだ品物を湊のそばにある倉庫そうこに入れました。この倉庫の持ち主が、納屋なやしゅうとよばれる人たちです。

 なぜ現代のように、湊に直接ちょくせつ船を着けなかったのでしょう。当時の湊周辺しゅうへん海底かいていはあさく、大きな船は入れなかったからです。漁村を少し大きくしたほどの湊を想像そうぞうしてみてください。せいぜい小舟が着くはしけほどの設備せつびだったのでしょう。そのため、南蛮船は沖合おきあい停泊ていはくしたのです。この小舟で運んでいる様子は、「さかいうら南蛮なんばん交易こうえき風俗図ふうぞくず」にもえがかれています。

南蛮屏風(堺市博物館蔵)

 ところで、「南蛮船」と言いますが、我が国の南の国から来たのではありません。ヨーロッパのポルトガルという国が仕立したてた船です。ただ、現代のような大型おおがたせんでしかも蒸気じょうきせんではありませんから、長旅ながたびはとても無理むりです。インドのゴアや東南アジア(タイやフィリピンなど)、中国などからやってきているのです。でも、日本に向かうのはどうしても東南アジアの方からになりますので、南方つまり南の国からやってきた船ということになるのでしょう。

 また、堺の町からも船を仕立てて南の海に出かけて外国の品物を多数堺の湊に運びこみました。風向きにしたがって船を出したりかえってきたりしたので、その風のふく季節きせつで、時期じきが決まります。そろそろもどってくる時期には、堺の人々が海をながめながら、船をっていたのです。

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