14 与謝野よさの晶子あきこと堺の海

 

堺駅前に立つ与謝野晶子像

 前回の堺駅南口から少し北に歩いて、堺駅の西口前にまで行ってみましょう。そこにある銅像どうぞうは、「与謝野晶子像」です。

 像の台座だいざには、
「ふるさとの しお遠音とおねのわがむね
         ひびくをおぼゆ 初夏のくも
と書かれています。

 これは、明治38年に歌ったもので、初夏の青空にうかぶ白い雲を見ていますと、いつしかむねの中にふるさとの潮の遠音がひびいて来るように思われます、という意味だそうです。この「ふるさと」というのが、与謝野晶子が生まれたこの堺の地で、「潮の遠音」というのは、昭和30年代前半まであった大浜の海の潮の音ということになります。

与謝野晶子生家跡と歌碑

 与謝野晶子の生まれた家は、駿河屋するがやというお菓子かしやでした。場所は、現在の阪堺電車の宿院しゅくいんていりゅう所の北にありました。阪堺電車の通っている紀州きしゅう街道かいどうは、昭和30年に西側にひろげられたために、晶子の生まれた家のあとはなくなってしまいました。現在は、その西側に「晶子生家せいかあと」としてのと、
「海こひし 潮のとおりかぞへつゝ
        少女おとめとなりし 父母ちちははの家」
と書かれた歌碑かひとが設置せっちされています。この歌に書かれている「海」はやはり大浜の海ですし、「父母の家」とは、自分の生まれ育った家のことですね。

 ともに「潮の遠音」「潮の遠鳴り」と歌われているように、晶子のころには、海の遠鳴りが聞こえてくるほど、海が近くにあったということでしょう。

 現在堺市内には、与謝野晶子の歌碑は23建立こんりゅうされています。市内では結構けっこう古く昭和41年に設置されたはまでら公園こうえんの歌碑にもやはり堺の「海」が歌われています。この浜寺公園の地は、明治33年に堺を訪れた与謝野てっかんがもよおした歌会うたかいの会場であった「寿命館じゅみょうかん」のあったところです。ここで晶子は、鉄幹と運命うんめいの出会いをし、その2年後には、鉄幹と結婚けっこんするのです。有名な、「君死にたまふことなかれ」のうたをよむのはさらにその2年後のことです。

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