15 与謝野よさの晶子あきこ歌碑かひ

 今回は、与謝野晶子をもう少しみていきましょう。晶子は与謝野てっかんと出会い、結婚けっこんをして東京でくらします。二人で詩集ししゅうを出したり同人どうじんといって考えを同じくする人たちどうしで詩についての話し合いをしたり、他の人の詩について考えを言い合ったりして、自分たちの詩の勉強べんきょうをしてそして、有名な「明星みょうじょう」という雑誌ざっしや「みだれがみ」「舞姫まいひめ」などの詩集を出して、自分の気持きもちを歌にしてうったえました。

 また、明治37(1904)年に、日本とロシアが戦争せんそうしたときに、晶子の弟が戦争せんそうに行くときの家族かぞくのすなおな気持ちを歌にした、「君死にたまふことなかれ」を発表はっぴょうしました。この詩は、戦争をいやがっているものだということで、晶子たちはきびしくこうげきをされ続けます。でもそんなこうげきにはけませんでした。

 しだいに夫の鉄幹よりも晶子の方が、みなにみとめられるようになり、鉄幹は、ヨーロッパで勉強しなおします。一年後、晶子もヨーロッパに行っています。

覚応寺

 晶子は、女性が男性よりも低く見られていることをつようったえて、女性の地位ちいを高める運動うんどうをしていきます。さらに、女性の地位を高め、男の人にたよらないで生きていける女性をそだてるために、東京で「文化ぶんか学院がくいん」をつくりました。

 そして、昭和17(1942)年5月29日、62さいで晶子はなくなっています。

 現在げんざい、堺市内には23もの歌碑がてられています。一つしょうかいしましょう。写真しゃしんの歌碑では、
「その子はたち くしにながるゝ くろかみの
                     おごりのはるの うつくしきかな」
と、うたわれています。わかいころの自分のくろくてうつくしい髪をあいしながら、ゆめ希望きぼうでいっぱいの気持ちをあらわしています。

泉陽高校学校

 さきの「君死にたまふこなかれ」の歌碑は晶子が卒業そつぎょうしたさかい高等女こうとうじょ学校がっこう(現在は大阪おおさか府立ふりつせんよう高等こうとう学校がっこう)におかれています。晶子はここでは明治21年から6年間学んでいました。

 

 

 

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