16 千利休せんのりきゅう屋敷やしきあと

 はんかい電車でんしゃ宿院しゅくいんていりゅう所をおりて、西に歩きましょう。宿院しゅくいんこうさ点の一つ西側の道を南にれると、そこには下の写真しゃしんの千利休の屋敷跡が見えてきます。

千利休屋敷跡

 千利休は、「南宗寺なんしゅうじ」のところでも書きましたが、ちゃ完成かんせいさせた人として全国に知られています。茶道さどうには現在、おもて千家せんけうら千家せんけ武者小路むしゃのこうじ千家せんけの三家がありますが、全てこの千利休から始まっています。でも利休は、はじめから茶道の家で生まれたのではありません。

 本名は田中与四郎よしろうといい、実は魚屋さかなや息子むすこです。また、納屋なやしゅうという倉庫業そうこぎょうをいとなんでいました。日本の各地から運ばれてくる品物や、外国からのくすり香料こうりょう、ガラス細工ざいくなどのめずらしい品物を一時しまっておく倉庫を持っていたのです。こうした品物は海から運ばれてくるので、利休の家も海のそばにありました。だから、現在の屋敷跡とされているところのすぐ西はもう海だったと考えられます。

 利休は、他の豪商ごうしょうと同じように会合かいごうしゅうの一人でしたが、当時、わが国をおさめるようになっていた織田おだ信長のぶながに見出されました。その後、信長の後をついだ豊臣とよとみひでよし茶頭さどうとなって、各大名だいみょうにも茶の湯をおしえるようになったために、大名が利休に相談そうだんをすることが出始めて、やがて利休は秀吉にも自分の意見を伝えるようになりました。秀吉は、自分の思い通りの政治せいじをしづらくなってきました。そんなおりに京都きょうと大徳寺だいとくじ山門さんもんの上に利休は自分の木像もくぞういたことが秀吉のいかりにふれ、ついに、秀吉は利休に切腹せっぷくを命じました。

千利休座像

 利休一族いちぞくのおはかは、その武野紹たけのじょうおうはかと向かい合うように、南宗寺のけいだいに立てられています。

 この利休の屋敷跡にのこされている写真しゃしんの井戸ですが、ツバキのすみを井戸のそこにしずめていたといわれ、「椿つばき」とも「椿の井」ともよばれています。

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