阪堺電車「宿院」停りゅう所をおりて、西に歩きましょう。宿院の交さ点の一つ西側の道を南に折れると、そこには下の写真の千利休の屋敷跡が見えてきます。
千利休は、「南宗寺」のところでも書きましたが、茶の湯を完成させた人として全国に知られています。茶道には現在、表千家、裏千家、武者小路千家の三家がありますが、全てこの千利休から始まっています。でも利休は、はじめから茶道の家で生まれたのではありません。
本名は田中与四郎といい、実は魚屋の息子です。また、納屋衆という倉庫業をいとなんでいました。日本の各地から運ばれてくる品物や、外国からの薬や香料、ガラス細工などのめずらしい品物を一時しまっておく倉庫を持っていたのです。こうした品物は海から運ばれてくるので、利休の家も海のそばにありました。だから、現在の屋敷跡とされているところのすぐ西はもう海だったと考えられます。
利休は、他の豪商と同じように会合衆の一人でしたが、当時、わが国をおさめるようになっていた織田信長に見出されました。その後、信長の後をついだ豊臣秀吉の茶頭となって、各大名にも茶の湯を教えるようになったために、大名が利休に相談をすることが出始めて、やがて利休は秀吉にも自分の意見を伝えるようになりました。秀吉は、自分の思い通りの政治をしづらくなってきました。そんなおりに京都の大徳寺の山門の上に利休は自分の木像を置いたことが秀吉のいかりにふれ、ついに、秀吉は利休に切腹を命じました。
利休一族のおはかは、その師の武野紹鴎の墓と向かい合うように、南宗寺の境内に立てられています。
この利休の屋敷跡に残されている写真の井戸ですが、ツバキの炭を井戸の底にしずめていたといわれ、「椿井」とも「椿の井」ともよばれています。