18 南宗寺なんしゅうじをめぐる人々

 前回、この南宗寺にかかわって、三好長慶ながよし沢庵たくあん和尚おしょうが出てきました。今回は、さらにこの寺にかかわる人についてふれていきましょう。

 まずは前々回に出て来た千利休せんのりきゅうですが、この人物については前に書きましたので、ここでは茶道さどうを完成させた人で、おはかが南宗寺にあることだけ書いておきましょう。

 千利休にちゃを教えたのが武野紹たけのじょうおうです。堺の商人でしたが、多くの堺の商人にも茶の湯を教えています。利休もその一人だったのでしょう。利休が紹鴎に弟子でし入りする時に、利休にごみ一つない庭を掃除そうじさせたところ、利休は木をゆすって落ち葉をちらし、風情ふぜいを出したのですぐに弟子にしたという話が残っています。この武野紹鴎の供養塔くようとうもこの寺に建っています。

徳川家康の墓

 先に出た三好一族の墓も、この寺にっていますが、何といっても、ここ南宗寺でわすれてならないのは、徳川とくがわ家康いえやすのお墓があることでしょう。大坂おおさかなつじん徳川とくがわ方と豊臣とよとみ方との大坂城おおさかじょう周辺しゅうへんでの戦い)のときに、ここ南宗寺で家康はなくなったというのです。豊臣方の後藤ごとう又兵衛またべえという武将ぶしょうてきをさがしていたときに、一丁のかごを見つけました。家康かと思ってやりしぬいてみたところ槍にはが付いていません。かんちがいかと思って向こうに行ってしまいましたが、家康は槍でさされかれる時にさっと槍についた血をふき取ったというのです。家康は床下に2、3日かくれていましたが死んでしまいました。それでここに家康のお墓があるというのです。

南宗寺坐雲亭

 その証拠しょうこに、夏の陣の後、二代将軍の徳川ひでただと三代将軍になる家光いえみつとが堺の町に来て、この南宗寺の雲亭うんていの2階に上って堺の復興状ふっこうじょうきょうを見ています。

徳川家家紋の軒瓦

 また、南宗寺に使われてているかわらには、徳川家のあおいもんが入っており、この二人が寄進きしんしたものかもしれません。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です