ふたたび紀州街道にもどって、さらに南へ向かいましょう。阪堺電車の「御陵前」停りゅう所に出ます。そこには大きな橋がかかっています。「少林寺橋」です。ここが昔の堺の町の南のはしにあたります。現代でもここから東西に土居川が流れています。下の写真は、現在の土居川にかこまれている昔の堺の町を南側から見たところです。
この土居川は、以前にも書いたようにむかしの堺の町を北・東・南と取りかこんでいました。この川によって堺の町を取りかこんだのは、自治都市のころよりも古く、1399年ごろのことではないかと言われています。それは、応永の乱の時(同年)に堺の町に立てこもった大内義弘は、堺の周りの堀を深くして、48ものやぐらをつくって室町幕府の軍と戦ったことから、ほぼそのころから堀らしいものがあったのではないかと想像できるのです。
この土居川も、堀をめぐらして自治を行うような堺があってはならないとする豊臣秀吉によって、1586年にうめ立てられました。そして、これを新たに掘ったのが「堺歴史ウォーキング」の第一回でも書きましたが、1615年のことです。
そのときに、この川のすぐ内側にはお百姓さんたちを住まわせて「農人町」とし、その内側にはお寺をならべて「寺町」としました。商人たちは、さらにその内側に大きな店を構えることで、堺の町自身を一つの城塞都市のようにしたのです。昔の中国の都市は、すべて城を中心として大きなかべで町をかこみ、その中に人々を住まわせていたので、まるでそれと同じような形をとっていました。
町の中央の大小路筋をはさんで、大大きな二つの神社ををおき、町の南北の中心にしています。また北の方には代官所をおき、堺を直接徳川幕府が治めました。現在の殿馬場中学校付近のことです。
田や畑は土居川の東側にあり、お百姓さんたちは、毎日橋を渡って畑仕事に出かけていたようです。