前回の新湊小学校前から、紀州街道をさらに南へ歩くと浜寺石津小学校の東門に出ます。そこをもう少し南へ行くと、右手に石津太神社があります。
「略記」によるとこの神社は、孝昭天皇七年八月一○日に建てられて、蛭子の命をまつっているとされています。いいつたえとして、日本の国をつくったとされているイザナギ、イザナミの夫婦がこの蛭子の命を流して、たどりついたところが石津川の岸で、もとの海岸の近くだそうです。蛭子の命がのっていた船には、「五色の石」もつまれており、この石をうめたところに石津太神社の本殿を建てたのです。
しかしこの時代は、まだわが国の神話の時代で、正式の歴史はありません。正式にはいつ建てられたのかははっきりしていません。孝徳天皇や後醍醐天皇もおまいりにこられていることから、立派な神社だったことがわかります。
ところが、この神社も戦のために何度も焼けてしまっており、現在の本殿は、一七世紀(一六○一~一七○○年)の中ごろに建てられたと考えられています。鳥居は、同じ江戸時代の寛永一九(一六四二)年に建てられており、拝殿もふくめて、江戸時代の様式が残されている大事な神社です。
この神社では、毎年一二月一四日に「ヤッサイホッサイ」という火まつりが行われています。これは、一○八たばのまきをつんで、午後八時に火をつけて、エビス神のすがたをした人を二人の青年がかついで火の上を三度わたるというものです。その時のかけ声が「ヤッサイホッサイ」というのです。これは、むかし蛭子の命が石津の浜にながれついたときに浜の人たちが、一○八のわらたばを集めて火をつけてあたためたという伝説から始まっています。
なお、先に書いた「五色の石」は、現在、紀州街道をはさんで向かい側に石碑が建てられ、そこにうめられています。