23 石津いわつ神社じんじゃ五色ごしきの石

 前回の新湊しんみなと小学校しょうがっこう前から、紀州きしゅう街道かいどうをさらに南へ歩くと浜寺はまでら石津いしづ小学校しょうがっこうの東門に出ます。そこをもう少し南へ行くと、右手に石津太神社があります。

五色の石
この下に石は埋められている

 「略記りゃくき」によるとこの神社は、こうしょう天皇てんのう七年八月一○日にてられて、蛭子ひるこみことをまつっているとされています。いいつたえとして、日本の国をつくったとされているイザナギ、イザナミの夫婦ふうふがこの蛭子の命をながして、たどりついたところがいし津川づがわきしで、もとの海岸かいがんの近くだそうです。蛭子の命がのっていたふねには、「五色の石」もつまれており、この石をうめたところに石津太神社のほん殿でんを建てたのです。

 しかしこの時代は、まだわが国の神話しんわの時代で、正式せいしき歴史れきしはありません。正式にはいつ建てられたのかははっきりしていません。こうとく天皇や醍醐だいご天皇もおまいりにこられていることから、立派りっぱな神社だったことがわかります。

 ところが、この神社もいくさのために何度もけてしまっており、現在げんざいの本殿は、一七世紀せいき(一六○一~一七○○年)の中ごろに建てられたと考えられています。鳥居とりいは、同じ江戸えど時代じだい寛永かんえい一九(一六四二)年に建てられており、拝殿はいでんもふくめて、江戸時代の様式ようしきのこされている大事な神社です。

石津太神社

 この神社では、毎年一二月一四日に「ヤッサイホッサイ」という火まつりが行われています。これは、一○八たばのまきをつんで、午後八時に火をつけて、エビス神のすがたをした人を二人の青年がかついで火の上を三度わたるというものです。その時のかけ声が「ヤッサイホッサイ」というのです。これは、むかし蛭子の命が石津の浜にながれついたときに浜の人たちが、一○八のわらたばを集めて火をつけてあたためたという伝説でんせつから始まっています。

 なお、先に書いた「五色の石」は、現在、紀州きしゅう街道かいどうをはさんで向かい側に石碑せきひが建てられ、そこにうめられています。

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