石津から旧国道26号線を南へ行きましょう。そこは浜寺公園です。この公園は、明治6(1873)年にわが国で最初につくられた公立の公園です。
もともと浜寺の海岸は、白砂青松をうたわれた松林の広がる美しいところでした。しかし明治維新後、生活にこまった武士を救うために堺県は、この松林を切って売っていました。たまたまこの地を訪れていた、明治新政府の大久保利通は、この松林が消えるのをおしんで、
「おとにきく 高師の浜の松が枝も
世のあだ波は のがれざりけり」
という歌をよみ、堺県知事に松を切るのをやめさせました。それを記念して、明治30年にここに「惜松碑」が建てられました。
こうして浜寺公園の松林は守られたのです。でも、ここの松は歴史もあり、枝ぶりもよく、「千両の松」「白へびの松」「羽衣の松」などの名前もつけられるほどで、多くの人々にも親しまれてきたのです。それでも半分以上の松が切られてしまったのです。
ところで、明治30年には、浜寺まで南海本線が開通し、明治39年には海水浴場がつくられ、浜寺水練学校も生まれています。
しかし、第二次世界大戦後の昭和22(1947)年、アメリカの進駐軍の宿舎用地として、長尾(現在の大阪府警察学校や堺市立長尾中学校)とともに、この浜寺公園が使われ、大事に守られてきた松も千七百本以上も切られてしまいました。おまけに、昭和33年にこの土地がわが国に返されるまで、日本人は浜寺公園の中に全く入れなくなりました。
わが国に返された後、昭和37年には臨海工業地がつくられるために海がうめ立てられ始め、海水浴場はなくなりました。
現在は、バラ園や児童用の遊具などがつくられ、新しい公園として家族連れなどに楽しまれています。