25 はまでら公園こうえんせきしょう

 石津から旧国道きゅうこくどう2626号線を南へ行きましょう。そこは浜寺公園です。この公園は、明治めいじ6(1873)年にわが国で最初さいしょにつくられた公立の公園です。

 もともと浜寺の海岸かいがんは、白砂はくしゃ青松せいしょうをうたわれた松林の広がるうつくしいところでした。しかし明治めいじ維新後いしんご、生活にこまった武士ぶしすくうために堺県さかいけんは、この松林を切って売っていました。たまたまこの地をおとずれていた、明治めいじ新政府しんせいふ大久保おおくぼ利通としみちは、この松林がえるのをおしんで、

 「おとにきく 高師たかしはまの松が
                      世のあだなみは のがれざりけり」

浜寺公園:惜松碑

 という歌をよみ、堺県知事ちじに松を切るのをやめさせました。それを記念きねんして、明治30年にここに「惜松碑」がてられました。

 こうして浜寺公園の松林は守られたのです。でも、ここの松は歴史れきしもあり、えだぶりもよく、「千両せんりょうの松」「白へびの松」「羽衣はごろもの松」などの名前もつけられるほどで、多くの人々にもしたしまれてきたのです。それでも半分以上の松が切られてしまったのです。

 ところで、明治30年には、浜寺まで南海なんかい本線ほんせんかいつうし、明治39年には海水浴場かいすいよくじょうがつくられ、浜寺はまでら水練すいれん学校がっこうも生まれています。

千両松

 しかし、第二次だいにじ世界せかい大戦後たいせんご昭和しょうわ22(1947)年、アメリカの進駐軍しんちゅうぐん宿舎しゅくしゃ用地ようちとして、長尾ながお(現在の大阪府警察けいさつ学校や堺市立長尾中学校)とともに、この浜寺公園が使われ、大事に守られてきた松も千七百本以上も切られてしまいました。おまけに、昭和33年にこの土地がわが国に返されるまで、日本人は浜寺公園の中に全く入れなくなりました。

 わが国に返された後、昭和37年には臨海工りんかいこう業地ぎょうちがつくられるために海がうめ立てられ始め、海水浴場はなくなりました。

 現在は、バラえん児童用じどうようゆうなどがつくられ、新しい公園として家族連かぞくつれなどにたのしまれています。

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