27 四ツ池よついけ遺跡いせき

四ツ池と遺跡上に建つ浜寺中学校

 はまでら公園駅こうえんえきからほぼ真東まひがし方角ほうがくに歩きましょう。国道こくどう二六号線と常磐ときわ浜寺はまでら)せんとが交わるところに、堺市立浜寺中学校があります。この中学校付近の敷地しきち一帯いったいをほると、昔の土器どきのかけらが出てきます。ここが、四ツ池遺跡です。

 今から二千数百年ほど昔に、このあたりにムラがありました。縄文式じょうもんしき土器どきといってなわのもようの入った土器を作っていた時代の終わりごろ(晩期ばんき)から、その後の弥生式やよいしきの土器を作る時代までのムラがあり、人々がくらしていました。海がこの近くまであったので、そこでりょうをしたり、田をつくって米作りをしたりしていたようです。

 この遺跡いせきには、百棟むね近い竪穴たてあな住居じゅうきょほっ立柱たてばしら建物たものっていたと考えられています。また竪穴住居は直径ちょっけい五メートルほどの住まいで、ゆかの中央には火を使ったあともあったとのことです。

四ツ池遺跡

 このムラで発見はっけんされた大事だいじなものは、縄文式土器を使っていた時代の終わりごろのつぼのなかに、すみになったもみが見つかったことです。それまでは、米作りは弥生式土器の時代になって作られ始めたといわれていたからです。この籾の発見で、わが国で米作りが行われ始めた時期じきが少し早くからだということになりました。

 ここでは、いねかりなどに使われていた石ぼうちょうや、りをするときに使われた矢じりなどが多く発見されました。この石の道具どうぐは、サヌカイトとよばれる石を動物どうぶつのほねでたたいて加工かこうしていました。このサヌカイトという石は、堺の東南東にある二上山にじょうざんのふもとでとれる石で、この石から矢じりなどの道具を作る集団しゅうだんが、ここ四ツ池の村にもあったのでしょう。

発見された方形周溝墓

 また、つりばりなどの漁具ぎょぐも多く見つかっており、ムラも海のそばにあったことから漁もさかんだったのでしょうね。

 

この遺跡は、近畿きんき地方ちほうの代表的な弥生やよい遺跡いせきで、中心部の十万へいほうメートルは国の史跡しせき指定していされています。

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