前回の大仙古墳をふくめた百舌鳥古墳群です。大仙古墳を中心に、履中陵古墳、反正陵古墳、にさんざい古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳など、大きな古墳がたくさん集まっています。さらに、その大きな古墳の周りには、培塚とよばれている小型の古墳もたくさん造られています。
これらの古墳ができたは、四世紀(301年~400年)の終わりごろから五世紀(401~500年)にかけてで、大和朝廷という大和の国(現在の奈良県)を中心にした地域がわが国の中心になっていた時代の古墳が、この百舌鳥の付近にたくさん集まっているのです。
前方後円墳という独特の形をしたもので、これほど大きなものが造られたのは、力の大きさを示すためだったのでしょう。
また、反正陵古墳、大仙古墳、履中陵古墳と大きな古墳が、南海高野線の堺東駅の東から南に、ずっと南北にならんでいます。まだ大阪湾が埋められていないころには、海からこの古墳のならんでいるすがたがよく見えたことでしょう。古墳時代に外国からわが国に入ってきた船からもこの姿がよく見え、わが国には、これだけの大きなものを造れる力があるということを見せつけたのかもしれません。
これらの古墳も、多くがこわされて宅地などに代わっており、確かめられている古墳は107基ありましたが、その内、現在でも残っているものは46基しかありません。
この百舌鳥古墳群と同じような規模の古墳群が、羽曳野市にもあります。これは古市古墳群とよばれており、令和元年七月、百舌鳥古墳群と合わせて、世界文化遺産に登録されました。
私の子どものころは、古墳の上にたくさんのシラサギが飛び回っていました。農薬が使われ出してからえさがなくなり、シラサギはほとんどいなくなってしまいました。