前々回の大仙古墳の北側から南海高野線をこえて榎小学校の北側に出ると、そこはもう竹内街道です。竹内街道は、堺と奈良とをむすぶわが国で最も古い官道です。国道第一号と言えるかもしれません。
この道は、堺の大小路筋じすじ(熊野小学校の前の道路)から始まっています。大小路橋(大小路筋と旧土居川との交わった所にあった橋)から東へ通り榎小学校の北を通り、阪和線をこえます。東へ進んで金岡小学校の北側を通り金岡神社の前へと出ます。そこから大泉緑地の南側の道へ、そして松原市に入ります。羽曳野市を通り、太子町から竹内峠をこえて奈良県葛城市に入ります。約26キロメートルの街道です。。
わが国の古い本である「日本書紀」(720年)には、「難波より京に至る大道を置く」と書かれています。「難波」というのは現在の「大阪」のことで、「京」というのは現在の奈良の「明日香」のことです。また、同じ本の天武天皇元年(672)のところには、「西之方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に至る」と書かれており、壬申の乱にも使われていたようです。それほど古くからあった道なのです。また、百舌鳥古墳群と古市古墳群のほぼ中央を通っている道なので、二つの古墳群をつないでいたのかもしれません。街道ができた当時は、それだけ重要な道であったことがよくわかります。。
奈良時代(710~794年)よりも古い飛鳥時代から、中国などの進んだ文化や宗教、仏像や大事な品物などをわが国に伝えていた遣隋 使といわれる学者や僧たちが、船で帰って来た時に、この竹内街道を通って来るました。そして、当の国の役所のあった飛鳥までそれらを持ち帰っていたのです。
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