43 いし津川づがわ

 堺市さかいし戦災せんさい殉難じゅんなんから宿院しゅくいん交差点こうさてんにもどりましょう。はんかい電車でんしゃの通っている道路は、紀州きしゅう街道かいどうでもあります。江戸えど時代じだいに、紀州(現在の和歌山県わかやまけん)のお殿とのさまが、江戸えど(現在の東京)まで一年ごとに「参勤さんきん交代こうたい」といって、往復おうふくをしなければなりませんでした。その道が紀州街道です。

 紀州街道を南に歩いていくと、ちょっと大きな川に出ます。それが石津川です。石津川の上流は泉北せんぼく丘陵きゅうりょうで、和田川、陶器とうきがわ百済くだらがわなどといっしょになり堺市内を広く流れて石津川となって、大阪おおさかわんに流れています。

石津川での晒のようす
(明治16年:住吉堺名所並に豪商案内記より)

 この川の中下流では昔から、さらしもの作りがさかんでした。というのは、昔からこのあたりでは木綿もめんをつくり、それをって木綿のぬのを作っていたからです。その布をっ白にするには、きれいな水がたくさん必要ひつようでした。布をきれいな水でしっかりとあらい、お日さまにあててかわかすことが大事でした。そこで、昔はとてもきれいな水が流れていた石津川であらい川原かわらでほしてかわかしたのです。

 これは、「ちゅうせん」という布をめることでも同じで、染めるために多くののりを使いました。こののりと染めたえきとをあらい流すことをしなければなりません。やはりこの石津川の流れを使いました。

 でも昭和30年代後半ころからしだいに石津川の水がよごれ出したので、今では川で布をあらうことができなくなり工場こうじょう内で行っています。

 石津川でもう一つわすれてはいけないのは「蛇行だこう」ということです。かつての石津川はとてもがりくねっていました。そのため大雨がふると川の水があふれることもよくありました。そこで、昭和三○年代に工事こうじをして流れをできるかぎりまっすぐになるようにしました。

 昔は蛇行だこうした広い川原かわらさらしの布をほしていたのです。

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