堺市戦災殉難の碑から宿院の交差点にもどりましょう。阪堺電車の通っている道路は、紀州街道でもあります。江戸時代に、紀州(現在の和歌山県)のお殿さまが、江戸(現在の東京)まで一年ごとに「参勤交代」といって、往復をしなければなりませんでした。その道が紀州街道です。
紀州街道を南に歩いていくと、ちょっと大きな川に出ます。それが石津川です。石津川の上流は泉北丘陵で、和田川、陶器川、百済川などといっしょになり堺市内を広く流れて石津川となって、大阪湾に流れています。
この川の中下流では昔から、晒や染め物作りがさかんでした。というのは、昔からこのあたりでは木綿をつくり、それを織って木綿の布を作っていたからです。その布を真っ白にするには、きれいな水がたくさん必要でした。布をきれいな水でしっかりとあらい、お日さまにあててかわかすことが大事でした。そこで、昔はとてもきれいな水が流れていた石津川であらい川原でほしてかわかしたのです。
これは、「注染」という布を染めることでも同じで、染めるために多くののりを使いました。こののりと染めた液とを洗い流すことをしなければなりません。やはりこの石津川の流れを使いました。
でも昭和30年代後半ころからしだいに石津川の水がよごれ出したので、今では川で布をあらうことができなくなり工場内で行っています。
石津川でもう一つわすれてはいけないのは「蛇行」ということです。かつての石津川はとても曲がりくねっていました。そのため大雨がふると川の水があふれることもよくありました。そこで、昭和三○年代に工事をして流れをできるかぎりまっすぐになるようにしました。
昔は蛇行した広い川原に晒の布をほしていたのです。