44 大和やまとがわのつけかえ

 前回がいし津川づがわだったので、今回も川をとり上げましょう。大阪市と堺市との間に流れている大和川です。今では、大阪にむかって電車や自動車にのると、かならずこの川をこえねばなりません。でもむかしは、この川はなかったのです。それは江戸えど時代じだいえられたからです。

 

大和川:浅香山付近

 大和川はもともと奈良県ならけんから大阪府の柏原市かしはらしに入るとすぐに北方に向いて流れ、河内かわち平野へいやを通って淀川よどがわで一つになっていました。奈良県ではたくさんの川だったものが生駒山いこまやまの南で一つになったために大雨がふると、すごいりょうの水が流れてきました。また、河内平野は大昔は海だったので、土地は低くすぐに水がたまりやすくなっていました。だから、江戸時代までは、大和川は大雨がふると洪水こうずいをおこしていたのです。。

 河内平野の農家のうかの人たちは、せっかく作っても農作物のうさくぶつが流されたり家が流されたりしてこまっていました。庄屋しょうや川中かわなか兵衛へえさんは、幕府ばくふに何度か川のえをお願いしましたが、幕府は川底をほるぐらいしかしてくれません。それでも洪水がくり返されたために、息子むすこ中甚なかじん兵衛べえが幕府にお願いをつづけ、幕府もついに川の付け替えをみとめてくれました。はじめのお願いから50年あまりがたった元禄げんろく16(1703)年のことです。。

 おかげで洪水はへりましたし、もとの大和川の土地では綿わた作りを行い、河内かわち木綿もめんとして各地に売るようにもなりました。。

浅香山稲荷神社

 この大和川の付け替え工事で浅香山あさかやま狐塚きつねづかをほり進めるときに、何度ほってももとのように土がまってしまうので、狐塚をさけてると無事ぶじに掘り進めることができました。そこで、この狐塚のところにしん殿でんを建てて「あさ香山かやま稲荷いなり神社じんじゃ」としたということです。また、狐塚にお願いをしたところ、狐たちが人夫にんぷさんになってはたらいたので川がスムーズに通ったともいわれています。。

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