前回が石津川だったので、今回も川をとり上げましょう。大阪市と堺市との間に流れている大和川です。今では、大阪にむかって電車や自動車にのると、かならずこの川をこえねばなりません。でもむかしは、この川はなかったのです。それは江戸時代に付け替えられたからです。
大和川はもともと奈良県から大阪府の柏原市に入るとすぐに北方に向いて流れ、河内平野を通って淀川で一つになっていました。奈良県ではたくさんの川だったものが生駒山の南で一つになったために大雨がふると、すごい量の水が流れてきました。また、河内平野は大昔は海だったので、土地は低くすぐに水がたまりやすくなっていました。だから、江戸時代までは、大和川は大雨がふると洪水をおこしていたのです。。
河内平野の農家の人たちは、せっかく作っても農作物が流されたり家が流されたりしてこまっていました。庄屋の川中九兵衛さんは、幕府に何度か川の付け替えをお願いしましたが、幕府は川底をほるぐらいしかしてくれません。それでも洪水がくり返されたために、息子の中甚兵衛が幕府にお願いをつづけ、幕府もついに川の付け替えを認めてくれました。はじめのお願いから50年あまりがたった元禄16(1703)年のことです。。
おかげで洪水はへりましたし、もとの大和川の土地では綿作りを行い、河内木綿として各地に売るようにもなりました。。
この大和川の付け替え工事で浅香山の狐塚をほり進めるときに、何度ほってももとのように土が埋まってしまうので、狐塚をさけて掘ると無事に掘り進めることができました。そこで、この狐塚のところに神殿を建てて「浅香山稲荷神社」としたということです。また、狐塚にお願いをしたところ、狐たちが人夫さんになって働いたので川がスムーズに通ったともいわれています。。