49 のぼ窯跡がまあと

 前回の小谷こたに城址じょうしから泉ヶ丘駅いずみがおかえきに行き、駅を通りぬけて西に向かうと泉ヶ丘市民センターの建物たてものが見えてきます。その建物の裏側うらがわを通って若松台方向に道路の下をくぐると、左側に「登り窯跡」が見えてきます。

登り窯跡(移築・復元)

 泉北ニュータウンを造成ぞうせいするときに、この泉北せんぼく丘陵きゅうりょう一帯いったいで、たくさんの登り窯の跡が見つかりました。登り窯というのは、陶器とうきをつくる時に、土をこねてうつわの形にしてかわかしたものをく時の窯のことです。

 これは、ななめ上につくった細長いトンネル(10メートル位)じょうのもので、この中にかわかした土器を入れて、下のたき口にまきを入れて口をとじて火をつけます。中は酸素さんそが不足しますが高温になります。炎は斜面しゃめんにそって上がっていき、熱が全体に伝わっていくようにしたものです。現在でも各地の焼物やきものをつくっているところでは登り窯を使っています。この登り窯のようすがよくわかるように、写真のように造りなおされて残されているのです。

高蔵寺73号窯

 弥生式やよいしき土器どきの時代は、土を焼く温度が低いために土器はもろく、すぐこわれました。色も赤黒いものです。でも、この登り窯で焼いた土器はかたくてこわれにくくなっています。それは、焼くときに1100度~1200度と高い温度で焼いているからで、この技術ぎじゅつは、古墳こふん時代じだいのころに朝鮮ちょうせんから伝わりました。色は灰色になっており、この登り窯で焼いた土器を須恵器すえきとよんでいます。

 須恵器は、泉北丘陵でたくさん焼かれていたようで、泉北ニュータウンを開発かいはつするための調査ちょうさで、登り窯の跡がたくさん発見されました。きっとこのあたりで焼かれた須恵器が各地に運ばれて使われていたのでしょう。

古墳時代の陶邑想像復元図

 この登り窯のしくみや、ニュータウンをつくるために発見された須恵器は、堺市博物館はくぶつかんなどでも見ることができます。

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