50 多治速比売たじはやひめ神社じんじゃ

多治速比女神社拝殿

 のぼ窯跡がまあとから泉ヶ丘駅いずみがおかえきにもどり、駅をこえてたけしろだい一丁団地と二丁団地の間の道路を北に歩きます。「いずみのさと」を左におれて道なりに行くと、やがて左側に多治速比売神社が見えてきます。

 この神社は、530年ごろにつくられたと伝えられていますが、明治初めごろまでは、総福寺そうふくじといっしょになっていました。しかし、神仏しんぶつ分離令ぶんりれいが出されて神社だけになったようです。境内けいだいには13社の社があり、合わせて「荒山こうぜんさん」とよばれています。

多治速比女神社本殿

 おまつりしているのは多治速比売みことという女性の神様で、日本武尊やまとたけるのみことつまともいわれています。日本武尊については、はとぶえ27回の「大鳥大社」でも書きました。みこと相模さがみの国から上総かずさの国に向かう途中で、海が荒れて船がしずみそうになったときに、妻の弟橘媛おとたちばなひめが水の中に入って波をしずめたことが、古事記という昔の本にのっています。この弟橘媛が多治速比売命だというのです。ほかにも、スサノオノミコトや菅原道真すがはらみちざねもまつられています。

 ここのほん殿でんは、室町むろまち時代の天文年間(1539~1541年)に再建さいけんされたものですが、昭和29~31年に解体かいたいして修理しゅうりをしたときにそれがわかったようです。本殿は三間社入母屋造いりもやづくりといわれる形式のもので、正面に千鳥ちどり破風はふがあり、大きな向拝こうはいがあります。向拝とは、屋根の一部が前につき出しているところのことですが、そこにはかえるまたとよばれる上の重さを支える組物くみものが付けられています。蟇股にはりゅうくも・波・ボタン・唐獅子からじしなどの掘り物があり、さらに向拝の支えの木には、芭蕉ばしょう(バナナの木)にカマキリという非常にめずらしい掘り物がされています。本殿は国の重要じゅうよう文化ぶんかざい指定していされています。

 昭和38年に泉北ニュータウンが造成ぞうせいされるときに、この社もその区域に入ることになり、一部は荒山こうぜん公園こうえんとして整備せいびされました。この荒山公園には1400本もの梅が植えられて2月~3月には梅がいっせいに咲きほこっています。

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