51 陶邑すえむらすえ荒田あらた神社じんじゃ

 前回の多治速比売たじはやひめ神社じんじゃの北を、泉北せんぼく環状かんじょうせんという道路が通っています。そこを東に進み泉北せんぼく高速こうそく鉄道てつどうをこえてさらに東に進むと、やがて中区の辻之つじのというところに出ます。そこから北向きに進むと上之うえのに入り、坂をのぼっていくと、やがて正面に神社が見えてきます。そこが、陶荒田神社です。

陶荒田神社

 この神社は、じん天皇てんのう7年に建てられたといわれていますが、紀元前きげんぜん一世紀いっせいきのことで、神話しんわの時代と考えていいでしょう。陶邑すえむらの大田の森に住んでいる太田おおた根子ねこが、崇神天皇に神主かんぬしとしてえらばれました。太田田根子の祖先そせんの神さまをまつるために大田の森にやしろてたのが、陶荒田神社です。

 ところで、このあたりには、古墳時代に陶器とうき千塚せんづかとよばれているほど古墳こふんがたくさんありました。横に穴をほって遺体をおさめたような古墳です。現在の陶器とうききた辻之つじの、東山にあたります。周辺しゅうへんにいくつかのムラがあったのでしょう。そのムラの周辺から現在げんざいの泉北ニュータウンにかけてたくさんの須恵器すえきがつくられていました。「陶邑すえむら窯跡群かまあとぐん」とよばれている窯跡が400も発見されたのです。当時は、1000ほどの窯が造られていたのではないかと想像そうぞうされています。

陶荒田神社拝殿

 この「陶器」を作っていたことで「陶邑」とよばれていたようです。また、この神社の由緒書ゆいしょがきには、大田田根子の子孫しそんである、このあたりをおさめていた荒田あらたのあたい祖先そせんの神さまをまつったことから、地名の「陶」と名前の「荒田」から「陶荒田」とよぶようになったとも書かれています。このあたりは、神話や伝説でんせつと事実とがまざっていて、どこまでを信じていいかわかりません。でも「陶器」と「荒田」とが関係していたようです。

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