52 西高野にしこうや街道かいどう

西高野街道と竹内街道の分岐点

 堺東から竹内たけのうちかいどうを東に向かって歩くと、やがてえのきで2本の道に分かれます。左に行くと竹之内街道、そして右に行くと西高野街道です。今回は右に行きましょう。

 もともと「高野街道」というのは、京都や大阪から高野山におまいりに向かう街道のことです。高野山は、平安へいあん時代じだい空海くうかいというおぼうさんが中国で仏教ぶっきょうを学んで日本にもどりひらいた真言宗しんごんしゅうの山なんです。もどるとちゅうの船から独鈷どっこしょというほとけさまの持つ武器ぶきを日本に向かってげ、それがとどいたところが高野山だったということです。

 高野街道にはいくつかあるのですが、堺市内を通っているのはこの「西高野街道」だけです。この街道は、平安時代(794~1192年)の後半から鎌倉時代(1192~1333年)のはじめごろに、高野山におまいりする道としてさかんに使われていました。また室町むろまち時代(1336~)から江戸えど時代(~1868年)ごろには、堺と高野山とをむすんで物をはこぶ道だったようです。

西高野街道:中百舌鳥付近

 この西高野街道は、一時、国道こくどう310号線といっしょになりますが、その後中百舌鳥町なかもずちょうの中を通っています。というより、この道をはさむように中百舌鳥の町ができていったのでしょう。ほぼこの道と並行へいこうするように国道310号線がつけられています。そして、とちゅうで高野街道といっしょになり、河内長野市かわちながのしで東高野街道とさらにいっしょになって、「高野こうや女人堂にょにんどう」に向かいます。榎で竹之内街道と分かれることを先に書きましたが、その少し西よりには、「高野山女人堂十三」とほられた十三里石のちょういしが立っています。まさにその通りなんですね。1里はおよそ4キロメートルですから52キロメートルほどの道のりなんですね。

十三里石:榎元町

 昔の人は、歩いて目的地まで行くしかありませんでした。それだけこのような街道は重要な道だったのです。

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