堺東から竹内道を東に向かって歩くと、やがて榎で2本の道に分かれます。左に行くと竹之内街道、そして右に行くと西高野街道です。今回は右に行きましょう。
もともと「高野街道」というのは、京都や大阪から高野山におまいりに向かう街道のことです。高野山は、平安時代に空海というお坊さんが中国で仏教を学んで日本にもどりひらいた真言宗の山なんです。もどるとちゅうの船から独鈷杵という仏さまの持つ武器を日本に向かって投げ、それがとどいたところが高野山だったということです。
高野街道にはいくつかあるのですが、堺市内を通っているのはこの「西高野街道」だけです。この街道は、平安時代(794~1192年)の後半から鎌倉時代(1192~1333年)のはじめごろに、高野山にお参りする道としてさかんに使われていました。また室町時代(1336~)から江戸時代(~1868年)ごろには、堺と高野山とをむすんで物を運ぶ道だったようです。
この西高野街道は、一時、国道310号線といっしょになりますが、その後中百舌鳥町の中を通っています。というより、この道をはさむように中百舌鳥の町ができていったのでしょう。ほぼこの道と並行するように国道310号線がつけられています。そして、とちゅうで高野街道といっしょになり、河内長野市で東高野街道とさらにいっしょになって、「高野女人堂」に向かいます。榎で竹之内街道と分かれることを先に書きましたが、その少し西よりには、「高野山女人堂十三里」とほられた十三里石の町石が立っています。まさにその通りなんですね。1里はおよそ4キロメートルですから52キロメートルほどの道のりなんですね。
昔の人は、歩いて目的地まで行くしかありませんでした。それだけこのような街道は重要な道だったのです。