54 野田のだ城址じょうし家原えばら城址じょうし

 今回は、堺市内の城址をみましょう。

野田城址

 まずは野田城址です。南海なんかい高野こうやせん北野田駅きたのだえきから狭山駅さやまえきに向かってすぐのところにこのはあります。この碑付近を中心にこの城はあったようです。

 1326年、野田庄のだのしょう地頭じとうだった楠木くすのき方の武将ぶしょう野田四郎のだしろう正勝まさかつつくりました。幕府ばくふが楠木正成のこもる千早ちはやじょうをせめたときに、四郎正勝の子の四郎まさうじは、村人たちと一夜で白いかべの大きな城があるように白い紙を使って大きく見せて、幕府軍を野田城で食い止めました。しかし、1356年、まご兵部ひょうぶ正康まさやすが幕府方にけ、村人も子どもも皆殺みなごろしになりました。後に野田村が、なくなった人たちをとむらうために、城内に大悲だいひあんてましたが、この大悲庵ではきさけぶ人たちの声がいつまでも聞こえつづけたとのことです。

家原城址

 もう一つの家原城址の碑は、家原町の大池の北に立っています。この碑の北東方には向ヶ丘むこうがおか団地だんちが広がっています。その団地あたりに家原城があったようです。

 永禄えいろく8年(1565)、堺の町をささえていた三好みよしながよしのけらいであるまつ永久ながひさひでは、長慶の一族の三好三人さんにんしゅう対立たいりつしました。松永方の武将ぶしょうたちは家原城を出て三好三人衆とたたかい、やぶれて岸和田きしわだににげます。えい禄11ろく年(1568)には松永方の武将ぶしょうが家原城にふたたび立てこもりました。しかし、三好方のへいにせめられてついに家原城はおちたのです。

大悲寺碑

 堺には、第48回の「小谷こたに城址じょうし」といい、いくつも城はありました。しかしいずれも大阪城や姫路ひめじじょうのような天主閣てんしゅかくのある大きな城ではありません。とりでのような城や屋敷やしきのような城だったでしょう。また日本の歴史れきしの中でも中心にはありませんでした。つねに脇役わきやくばかりです。でもこうして地名として残るほどのものだったのです。

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