前回の黒姫山古墳から国道309号線を北に歩きますと、やがて左側に写真の「日本鋳物師発祥地」の石碑が見えてきます。
前回の「黒姫山古墳」のところで書きましたが、鉄製の甲冑が24も発見されています。この古墳からこんなにもたくさんの鉄製の甲冑が見つかったことからもわかるように、このあたりでは昔から鉄や銅を加工して造る技術をもった人たちが集団で住んでいました。特に鎌倉時代~室町時代にかけてこの技術者集団がこの地域でさかえました。この集団を「河内鋳物師」といいます。このあたりが昔は「河内の国」とよばれていたからです。
中でも東区の日置荘から美原区の大保を中心とする北の方に集団があり、東大寺の大仏の修理や鎌倉の大仏をつくるなど全国で活躍をしました。全国のお寺の鐘に「河内鋳物師」の名がきざまれていたことで、そのことがよくわかります。
また、鍋は「河内鍋」として知られており、やがて、その技術をかわれて各地から求められて、河内鋳物師たちは各地に移り住むようになりました。中には環濠都市であった堺にも移り、堺の鉄砲(火縄銃)をつくるようにもなりました。堺の鉄砲というものがとても有名ですが、もともとはこの河内鋳物師の技術だったのですね。
現在では、美原区役所の前に鐘をモチーフにした大きなモニュメントが建てられており、河内鋳物師の活躍を今に伝えています。また、みはら歴史博物館には、黒姫山古墳から見つかった鉄製の甲冑などが展示されたり、河内鋳物師がはぐくんできた鋳物技術のようすを、わかりやすく見せてくれたりしており、河内鋳物師を知るのにとてもいい施設だと思います。
ここが、わが国の鋳物師がおこった場所なのです。