57 船尾ふなおへのまつ

 今回は、タイトルのとおり、二つの地名についてふれましょう。「船尾」は、はんかい電車でんしゃていりゅう所の名前にもありますね。この二つの地名の共通なものは何でしょう。

 実は、共に「じんぐう皇后こうごう」に関係しています。「神功皇后」といってもあまり聞いたこともないでしょう。第14代仲哀ちゅうあい天皇てんのう皇后こうごうです。「日本にほん書紀しょき」という昔の本には、仲哀天皇がなくなられた後の政治せいじを神功皇后が行い、さらに朝鮮ちょうせん半島はんとうに兵を出して新羅しらぎという国をせめたことが書かれています。一つの伝説でんせつです。

舳松社会教育会館

 この朝鮮半島の国とのたたかいにって、たくさんの船をひきいてわが国に帰ってきました。まずは九州にたどり着き、そこから現在の堺に帰ってきました。堺では、その神功皇后ののった船の舳先へさき(船の一番先のところ)を松の木につなぎました。その松の木のあったところが「舳松」です。現在の協和町きょうわちょうにあたります。「へのまつ社会しゃかい教育きょういく会館かいかん」にその名前が残されています。

船尾停留所表示

 そして、その船団せんだん最後さいごの船をとめたところから、「船の」つまり「船尾」という地名が生まれたのです。「船尾」は、阪堺電車の「はま寺駅前でらえきまえ」の次の停りゅう所の名前として残されていますが、地名としては現在の「浜寺船尾町」として残されています。

 このように、堺市内の地名には、伝説から生まれたものがあるのです。現在ではそのいわれもほとんどわすれられていますが、あらためて知ると地名のふしぎさを感じることでしょう。

船尾停留所

 なお、百舌鳥もず古墳群こふんぐんとともに世界せかい遺産いさんへの登録とうろくをめざしている古市ふるいち古墳こふんぐんが、羽曳野はびきの市などにありますが、その中心になっているおうじんりょう古墳の応神天皇てんのうは、この神皇后の息子むすこだそそうです。

 次回も、さらに堺市内の地名を見ていきましょう。

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