62 新左しんざ衛門えもん

 前回に引きつづいて「曽呂利新左衛門」をとりあげましょう。堺のあいすべき人物ですよ。私は、一休さんやきっ四六ちょむさんとならべられるほどだと思っています。それほどのとんちの知恵者ちえしゃなんですね。堺の千利休せんのりきゅう与謝野よさの晶子あきこかたを並べてもいいのではとも思います。では、今回の曽呂利話を。

曽呂利新左衛門供養塔:
妙法寺:中之町東

 あるとき、曽呂利が豊臣とよとみひでよしに「食べるのにこまっている人がいるので、紙ぶくろ一枚に入るぐらいの米をやりたいので、おゆるしをください。」とおねがいをしました。秀吉は、すぐにそれをみとめました。

 十日ほど後に、秀吉の家来けらい石田光いしだみつなりが来て、「たいへんなことがおこりました。曽呂利が、大きな紙ぶくろを持ってきて米蔵こめぐら全体にかぶせてしまいました。中の米を運び出そうとしています。」とうったえました。秀吉は感心かんしんをして「しかたない。全部やれ。」と命じました。この時の米は大八車だいはちぐるまに百二十に台あったといいます。曽呂利は、その米に「御施米おふせまい」と書いて、困っている人にあたえました。「御施米」というのは、お殿とのさまから人々にあたえてやる米のことをいいます。米をもらった人々は「ありがたい。」と、秀吉のことをまるで神様かみさまのように思って人々と言い合いました。

 後に秀吉は曽呂利に「お前の紙ぶくろは、ちょっと大きすぎたぞ。」とわらって言ったそうです。

和泉名所図会に描かれた曽呂利新左衛門

 このように、曽呂利は、日本の国をおさめている秀吉にたいしてどうどうとものを言い、とんちでからかったりしました。実際じっさいにこういうことを行ったのかどうかはわかりませんが、おそらく、町の人たちが秀吉をぎゃふんといわせることで気持ちをすっとさせたくて、曽呂利という人物にかさねて作ったのかもしれません。曽呂利にあやかって、みなさんもとんちを使われては。

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