前回の開口神社のまわりを囲んでいる「玉垣」という石で造られた垣根を見ていると、写真のものがありました。ちょっと見にくいですが、「鳥井駒吉」とほられていますね。今回は、この「鳥井駒吉」について書いてみましょう。
鳥井駒吉は、嘉永6年(1854)に堺の宿院町の米屋の家で生まれましたが、明治3年(1870)に家のしごとの酒造業をつぎました。当時の堺は、兵庫県の灘や西宮などとともに、清酒の名産地でした。26歳で堺酒造組合の最初の組合長につくや、酒をつくる技術を改良したり、より多く生産できるような仕組みをつくったりしていきます。そして、1889年に、大阪麦酒会社をつくって初代の社長につき、ビールの製造・販売を始めました。最初の販売が1892年のことで、これを「アサヒビール」と名づけました。
また、明治5年(1872)に、東京の新橋と横浜の間をわが国ではじめて鉄道が通りましたが、これは国がつくったものでした。駒吉たちは、明治18年(1885)には、仲間の18人といっしょに「阪堺鉄道」を難波と大和川の間で走らせました。わが国の私鉄としては最初の鉄道です。もともとは大阪と堺とをむすぶ鉄道として計画しましたが、これは、その第一歩となります。しかしなかなか皆には認められず、「火をふく車」といってさけられたこともあったようです。電車はまだまだ先のことで、当時は蒸気機関車でしたのでそのように思われていたのでしょう。それでも、明治21年(1888)には、大和川をこえて吾妻橋駅(現在の堺駅)まで線路がのばされ、はじめの計画通り大阪―堺間を鉄道でむすぶことができたのです。これが、現在の南海電車です。
鉄道で大阪と堺とが結ばれるようになると、それまでは、馬車などで、大和橋をわたって大阪に行き来してきた人々にとってとても便利ではやくなったのですね。