町名にもある「少林寺」です。阪堺電車「寺地町」停りゅう所から南東へ三百メートルほど歩いたところにあります。
「少林寺」と聞くと、「少林寺拳法」を思い出されるかもしれません。でも、このお寺は、拳法とは関係はありません。もとは「少林寺」ではなくて「小林寺」でした。開かれたのは元徳2年(1330)でしたが、のちに中国の「少林寺」にならって「小」を「少」の字にあらためました。境内は、現在の寺地町と少林寺町とを合わせた地域が海まで続いていたほど広かったのです。しかし、織田信長にそのお寺の境内の大部分をとられたために、しだいにせまくなっていきました。それでも、豊臣秀吉は、家来の石田光成や小西行長に命令して境内の竹を切ることをやめさせたというほど、このお寺は有名だったのです。
さて、江戸時代の「和泉名所図会」という本には、「白蔵主」の話が、「少林寺」について書かれているところにのせられています。「白蔵主」というのは、キツネがお坊さんに化けたものをいいます。猟をするお坊さんの甥をおそれた白いキツネが、お坊さんにばけて、猟をするのをやめるように、甥に話します。その時は、甥も猟をやめるのですが、後に、キツネがお坊さんに化けていたのがばれたために、キツネは逃げ去ってしまうのです。
永徳元年(1381)、耕雲庵のお坊さんの白蔵主が、お稲荷さんにおまいりして、狂言「釣狐」をつくりました。それが演じられてから、狂言や歌舞伎で「釣狐」を演じる場合には、この「少林寺」をおまいりして、芸がうまくなるように、上演が成功するようにお願いをしました。そして、寺に植えてある「逆芽竹」を一本お祈りをしてもらって持って帰り、上演のときにツエに使われることになっています。