阪堺電車「花田口」停りゅう所でおりて、広い通りを東へ歩くと右側に校舎が見えてきます。これが、堺市立殿馬場中学校です。私もこの学校の卒業生なんです。殿馬場中学校に通いながら、なぜこんな名前がついているのかふしぎでした。ほかの学校の名前は、建っている場所の地名が入っていることが多いのですが、ここはちがいます。なぜ「殿馬場」なんでしょうか。
実は、江戸時代、この場所には堺奉行所がありました。大坂夏の陣で焼けた堺の町を新しくするとともに、この町を徳川幕府が直接おさめるためにおかれたのです。ただ、場所は中学校のところだけではなくて、泉陽高等学校のあたりも奉行所だったようです。この中に、堺奉行の屋敷があり、与力や同心の家などの武家屋敷もならんでいました。奉行所ですので現代の市役所と警察署、裁判所、刑務所などの仕事が行われていました。特に、堺の町には船で全国の品物や外国の品物などが運ばれてきていましたので、堺の湊も、堺の町内のこととともに大事な仕事でした。多い時には与力が10人と同心が50人もいたようです。
この奉行所のお奉行さま、つまりお殿さまたちが乗馬の練習をするための馬場があったのが、ちょうど現在の殿馬場中学校のあたりだったので、「殿馬場中学校」という名前がついたのです。
明治時代になって奉行所はなくなりました。しかし、明治22年(1889)に全国で市制町村制がしかれたときに、堺の町も市となり、はじめは開口神社におかれた市役所が、明治25年には正式に堺奉行所の跡地に建てられました。昭和19年(1944)に現在の堺東に建てられるまで、市役所がおかれていたのです。
第二次世界大戦で、完全にこのあたりは焼け出されたために、奉行所があったことはこの石碑を残すだけです。