堺の町をきちんとえがいた最も古い地図が「元禄二年堺大絵図」です。この地図は、東西が約7.7メートルで、南北が約9.7メートルあります。ちょうど30畳敷きの部屋に入る大きさなのです。元禄2年とは1689年です。この時代にこんなに大きな地図をなぜ作ったのでしょうか。
この地図を作ったのは、前回に取り上げた堺奉行所です。奉行所は現在の市役所の仕事をしていました。だから一軒一軒の家から税金を集めることも仕事でした。そのためには、市内のそれぞれの家の大きさや仕事もしっかりとつかんでいなければなりません。そのための大事な資料となったのが、この「堺大絵図」なのです。
この絵図には、一軒一軒の家の大きさがわかるように、間口(通りに面した家のはば)と奥行き(通りから奥にいくたての長さ)まで家ごとにきっちりと書きこまれています。この地図がつくられた江戸時代は、各家の間口の大きさに応じて税金がかけられていたのです。そのため、特に間口の大きさは重要だったのですね。
また引っ越しや新しく家が建てられたり、海のうめ立てで土地が広がったりと、市内のようすが変わっていきます。そのたびに変わったところを書きこんだ小さな紙を、この地図にはっていました。この地図がつくられたころは、大和川が現在のところを流れていませんでしたが、やはり、一部分に大和川をかいた紙をはっています。
以前にも書きましたが、1615年の大坂夏の陣で堺の町は焼けています。堺の町を元通りの町にするように命じたのは徳川家康です。その命をうけて新しい堺の町をつくられたのが、風間六右衛門です。そして、その新しい堺の町をえがいたのがこの地図なのです。
なお、この堺の町をつくられた風間右六衛門をまつった「風間堂」が、並松町につくられています。