77 元禄げんろく二年にねんさかい大絵図おおえず

元禄二年堺大絵図
(「前田書店版」)

 堺の町をきちんとえがいたもっとも古い地図ちずが「元禄二年堺大絵図」です。この地図は、東西がやく7.7メートルで、南北が約9.7メートルあります。ちょうど30じょうきの部屋へやに入る大きさなのです。元禄2年とは1689年です。この時代にこんなに大きな地図をなぜ作ったのでしょうか。

 この地図を作ったのは、前回に取り上げたさかい奉行所ぶぎょうしょです。奉行所は現在げんざい役所やくしょの仕事をしていました。だから一軒いっけん一軒の家から税金ぜいきんを集めることも仕事しごとでした。そのためには、市内のそれぞれの家の大きさや仕事もしっかりとつかんでいなければなりません。そのための大事な資料しりょうとなったのが、この「堺大絵図」なのです。

堺大絵図の大小路筋付近
(「前田書店版」)

 この絵図には、一軒一軒の家の大きさがわかるように、間口まぐち(通りにめんした家のはば)と奥行おくゆき(通りから奥にいくたての長さ)まで家ごとにきっちりと書きこまれています。この地図がつくられた江戸えど時代じだいは、各家の間口の大きさに応じて税金がかけられていたのです。そのため、特に間口の大きさは重要じゅうようだったのですね。

 

 

堺大絵図に描かれた戎島(「前田書店版」)

 また引っしや新しく家が建てられたり、海のうめ立てで土地が広がったりと、市内のようすが変わっていきます。そのたびに変わったところを書きこんだ小さな紙を、この地図にはっていました。この地図がつくられたころは、大和川が現在のところを流れていませんでしたが、やはり、一部分に大和川をかいた紙をはっています。

 以前いぜんにも書きましたが、1615年の大坂おおさかなつじんで堺の町はけています。堺の町をもと通りの町にするように命じたのは徳川とくがわ家康いえやすです。そのめいをうけて新しい堺の町をつくられたのが、風間六かざまろく衛門もんです。そして、その新しい堺の町をえがいたのがこの地図なのです。

風間堂

 なお、この堺の町をつくられた風間右六衛門をまつった「風間堂かざまどう」が、なんまつちょうにつくられています。

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