79 しょう雲寺うんじ

祥雲寺庭園

 はんかい電車でんしゃを「宿院しゅくいんていりゅう所でおりて東へ向かい、阪神はんしん高速こうそく道路どうろの手前を左に入ると、祥雲寺が見えてきます。かわらかさねた土のへいが、歴史れきしかんじさせてくれるような気になります。

 堺の豪商ごうしょうだったたに正安しょうあんは、沢庵たくあん和尚おしょうのために寺をてようとしました。海会寺かいえじ跡地あとち寛永かんえい2年(1625)に寺をつくり、沢庵をむかえました。建てた当時は、ずい泉寺せんじと名づけられていましたが、寛永16年(1639)に祥雲寺としました。当時は、徳川とくがわ三代目の将軍しょうぐんである家光いえみつにより、徳川幕府が巡見使じゅんけんしとして見回るための場所に、この祥雲寺が指定していされています。

沢庵供養塔

 このお寺の庭はかれ山水さんすいで、江戸えど時代じだいのはじめごろのものだそうです。京都の有名なお寺である大徳寺だいとくじ住職じゅうしょくであった天裕紹果てんゆうしょうかがつくられ、塀の近くにいくつかの石を組み合わせてき、その前を白いすなで水の流れをイメージしたものになっています。

 しかし、昭和20年(1945)の第二次だいにじ世界せかい大戦たいせんでこのお寺全体がけてしまいました。枯山水も焼けてしまいましたが、のこされた石組いしぐみをもとに造りなおされたおかげで、今でも当時の庭園ていえんをながめることができるのです。この庭は、大阪府の指定してい名勝めいしょうにされています。

 

谷正安夫妻墓
松島図屏風右双(複製):俵屋宗達

 またこのお寺には、谷正安がたのんでえがかれた「沢庵たくあん和尚像おしょうぞう」や、お釈迦しゃかさまおしえを聞いている弟子でしのすがたをえがいた「釈迦二声聞しょうもん像」は、ともに重要じゅうよう文化ぶんかざいに指定されています。さらに、谷正安が同じくたのんで俵屋宗たわらやそうたつにえがかせた「松島図まつしまず屏風びょうぶ」はこの祥雲寺におくられましたが、明治時代になってアメリカにおくられて保存ほぞんされているということです。わが国に残されていれば国宝こくほうになっただろうといわれているほどすばらしいものだそうで、その複製が展示されています。

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