83 さかい紡績所ぼうせきしょあと

 南海なんかい本線ほんせん「堺」えきをおりて、北東に向かいます。大きな四棟よんとうの団地が見えてきます。その団地の南東の角に、写真の石のがあります。「明治天皇めいじてんのう」の文字が見えるでしょうか。

 明治10年(1877)に明治天皇が熊野ゆや小学校で授業じゅぎょう参観さんかんされましたが、その後、この地にやってきました。実は、ここに「堺紡績所」があったのです。

堺戎島紡績所

 武士ぶしの時代である江戸えど時代から、市民の時代である明治時代になって、わが国は大きく国の方針ほうしんえました。それまでは外国をてきのようにまで見ていましたが、明治になって外国のすぐれた教育きょういく政治せいじ文化ぶんか技術ぎじゅつなどを取り入れて、進んだヨーロッパやアメリカに追いつこうとしました。そのためには、国の産業さんぎょうをおこしてゆたかな国づくりをし、軍隊ぐんたいをつくってつよい国にすることが大事だと考えるようになったのです。その一つが、この紡績所です。

 もともとは、慶応けいおう2年(1866年、外国の進んだ技術を取り入れていた薩摩藩さつまはん(現在の鹿児島県かごしまけん)が、堺のえびすじまに紡績所をつくり始めました。しかしもうけにはつながらず、明治5年に国に売りました。そこに明治天皇が見に来られたのです。次の年には民間にはらい下げられて川崎かわさき紡績所となります。明治22年には泉州せんしゅう紡績会社となって「戎印えびすじるし」の商標しょうひょうがブランド化されるなど成功せいこうをとげました。当時は中国や香港ほんこんにまで進出しています。この泉州紡績会社も明治36年(1903)には岸和田きしわだ紡績と合併がっぺいされ、ブランド商品をつくり出します。その後、施設しせつは古くなり昭和しょうわ8年(1933)に取りこわされました。

堺戎島紡績所跡 明治天皇臨幸

 今はあとかたもありませんが、先の石碑せきひでようやくその紡績所があったことを私たちに知らせてくれます。写真しゃしんの紡績所のは、歴史れきしの教科書などにもよくっていました。

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