89 和泉式部宮いずみしきぶのみや

 JR阪和はんわせん津久野駅つくのえきから南東に15分ほど歩くと家原寺えばらじに出ます。そこから南へ下り、さらに台地を西に少し上りますと、小さなお堂が見えてきます。ここが和泉式部宮です。

和泉式部宮

 和泉式部は、父越前えちぜんのかみ大江雅致まさむねと母越中えっちゅうのかみ平保衡たいらのやすひらの娘との間に、西暦せいれき900年代の後半に生まれました。当時の女性には名前はなく、「だれそれの娘」として呼ばれていまた。では、なぜ、「和泉式部」と呼ばれているのでしょうか。

 西暦995~999年のころに、和泉守となったたちばなのみちさだと結婚をします。夫の橘道貞が和泉に赴任ふにんした時に、和泉式部も一緒に任地にんちに来たようで、現在の平岡町の西のはしの台地に住んでいたと言われています。夫の任地である「和泉」と、父親の官名かんめいの「式部」から「和泉式部」と呼ばれているのです。この二人の住まいと思われる所を和泉式部宮として残し、地域の方々に宮として整備せいびされまつられているのです。

 和泉式部は、先にも書きましたように、平安時代(794~1192年)の代表的な歌人で、小倉おぐら百人一首にもその歌が選ばれています。当時の第一級の歌人である紫式部むらさきしきぶも、「紫式部日記」の中で、和泉式部の歌を高く評価ひょうかしています。しかし、夫道貞との仲が悪くなったおりに、冷泉れいぜい上皇じょうこうの皇子であるためたか親王しんのうと仲が良くなるなど、恋愛れんあい関係かんけいではあまりいい評判を残しませんでした。百人一首に選ばれた「あらざらん この世のほかの 想い出に 今ひとたびの う事もがな」でも、自分は大病で明日をも知れないが、今一度、想う人にいたいものだ、という歌を歌っているほどです。

 また、道貞との間に生まれた小式部こしきぶ内侍も歌がうまく、
           「大江山 いくのの道のとおければ まだふみもみず 天のはしだて」
の歌は、母とともに百人一首に選ばれています。カエルの子はカエルなんですね。

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