南海本線「七道」駅から内川にそって南へ二百メートル歩くと、川の東側の角に小さな石碑が見えてきます。ここが海船政所跡です。
阿波国(現在の徳島県)の大名の三好長輝は、細川澄元を助けて足利幕府の管領(現在の首相のように政治を行っていた)にしました。自分は澄元を支えるようにして実権をにぎりました。当時の都だった京都に近くて、自分の国の阿波に渡るのにちょうどよい場所として、堺に館を建てることを計画して、永正元年(1504)、海の見える海船町で工事を始めました。この碑の建っているところから西側は当時は海だったので、ちょうど海の側に館を建てたのです。
完成したのは孫の三好元長の時代で、大永元年(1521)に政所として認められました。政所というのは、政治を行う役所なので、ちょうど京都の幕府の出張所のようなところだったのでしょう。大きさは、東西が約650メートル、南北はその倍あったといわれており、桜之町西三丁付近が中心で、錦之町西あたりまでひろがっていたようです。三好元長といえば、かつても書きましたが、堺幕府を開いた武将ですね。この時代は、三好一族の最も勢いの盛んな時代だったのでしょう。
当時の館には中央に高い矢倉をつくり、そこから四方を監視していました。どこかで何事かがおこると鐘や太鼓を鳴らして一族に知らせたようです。武器もたくさんそなえられていました。また、摂津や和泉、岸和田、河内などの城に兵をおいていましたが、それらの城をまとめる本城の役目をしていたのでしょう。
元長がなくなった後は、長慶、義興、義継の三代までもこの館に住み、堺の町を三好一族の力がおよぶところにしていたのです。