江戸時代終わりごろの天保7年(1837)のころは、日照りが続いて米や作物が育たなかったことや、商人たちが米を買い占めてしまったために、米の値段がとても高くなり、米などを買えない人々がたくさん出て、道端で倒れたままの人たちも出るようなようすでした。食べるものがなくて飢えで亡くなった人たちはこの冬だけで数千人とも言われています。
その時代に作られた山が「お蔭山」です。場所は、大浜北町一丁から二丁にかけての地域です。南海本線堺駅から少し南に行った線路沿いの道路そばに、写真の石碑「お陰山跡」は立っています。
天保時代の堺奉行の曲淵甲斐守は、現在の住吉橋町二丁あたりから大浜北町一丁あたりまでの間に運河をつくって、生活に苦しむ人たちに土木仕事をしてもらい、救おうとしました。天保8年から運河をほりはじめ、作業に応じて賃金を支払いました。
この時に出た土砂を積み上げて、先の場所に高さ約17、6メートルの小山ができました。人々は、お陰で苦しい生活をなんとかしのぐことができたとのことで、「お蔭山」とよんだのです。また天保時代にできたので「天保山」とも、働いた後に茶がゆを配給されたことから「茶がゆ山」ともよんだようです。
海の近くで、しかも高さもあったので、観光名所にもなり、写真の「泉州堺湊新地繁栄之図」にもこの「お蔭山」はえがかれています。図の左上の白い山がそれです。頂上には、住吉大明神や金毘羅大権現などをまつった旭社や、開口神社の御旅所まであったようです。
明治時代になって開発が進むと、しだいにこの山は切りくずされていきました。明治29年(1896)には窯業会社の一部になり、その後もさらに平地になって、工場や住宅地となっていき現在は、その跡かたもありません。