95 お蔭山かげやまあと

 江戸えど時代じだい終わりごろの天保てんぽう7年(1837)のころは、日りが続いて米や作物さくもつそだたなかったことや、商人しょうにんたちが米を買い占めてしまったために、米の値段ねだんがとても高くなり、米などを買えない人々がたくさん出て、道端みちばたたおれたままの人たちも出るようなようすでした。食べるものがなくてえでくなった人たちはこの冬だけで数千人とも言われています。

 その時代に作られた山が「お蔭山」です。場所は、大浜北町一丁から二丁にかけての地域ちいきです。南海なんかい本線ほんせん堺駅さかいえきから少し南に行った線路沿せんろぞいの道路そばに、写真の石碑せきひ「お陰山跡」は立っています。

 天保時代のさかい奉行ぶぎょう曲淵まがりぶち甲斐かいのかみは、現在のすみ吉橋よしばし町二丁あたりから大浜北町一丁あたりまでの間に運河うんがをつくって、生活に苦しむ人たちに土木どぼく仕事しごとをしてもらい、すくおうとしました。天保8年から運河をほりはじめ、作業さぎょうおうじて賃金ちんぎん支払しはらいました。

 この時に出た土砂どし8ゃみ上げて、先の場所に高さやく17、6メートルの小山ができました。人々は、お陰で苦しい生活をなんとかしのぐことができたとのことで、「お蔭山」とよんだのです。また天保時代にできたので「天保山」とも、はたらいた後に茶がゆをはいきゅうされたことから「茶がゆ山」ともよんだようです。

 海の近くで、しかも高さもあったので、観光かんこう名所めいしょにもなり、写真の「泉州せんしゅうさかい湊新地繁栄之図みなとしんちはんえいのず」にもこの「お蔭山」はえがかれています。図の左上の白い山がそれです。頂上ちょうじょうには、住吉すみよし大明神だいみょうじん金毘羅こんぴら大権現だいごんげんなどをまつった旭社あさひしゃや、開口あぐち神社じんじゃ旅所たびしょまであったようです。

 明治めいじ時代になって開発かいはつが進むと、しだいにこの山は切りくずされていきました。明治29年(1896)には窯業ようぎょう会社がいしゃの一部になり、その後もさらに平地になって、工場や住宅地となっていき現在は、そのあとかたもありません。

お陰山跡の石碑と泉州堺湊新地繁栄之図(堺市博物館より)

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