鈴木すずき貫太郎かんたろう

「鈴木貫太郎誕生之地」石碑

 阪和はんわ自動じどう車道しゃどうにそって泉北一号線との交差点こうさてんから西に向かいます。原池はらいけ公園こうえん体育館たいいくかんを左に見て少し行くと、堺かつらぎ線の道路と交わります。そこを左に曲がります。しばらくすると陶器とうきがわをこえたところに久世くぜ校区こうく地域ちいき会館かいかんが見えてきます。その向こう側に今回の主役の「鈴木貫太郎誕生之地たんじょうのち」という大きな石碑せきひがあります。

 「鈴木貫太郎」という名前を知っていますか。この人は実は堺出身のただ一人のわが国の首相しゅしょうなのです。時代は、昭和20年(1945)、第二次だいにじ世界せかい大戦たいせんでのわが国の敗戦はいせんがはっきりしていた四月に指名しめいされて首相になりました。その年の8月には連合れんごう国軍こくぐんによるポツダム宣言せんげんを受け入れて敗戦の決定をされました。それまでは陸軍りくぐん出身しゅっしんの人が首相をつとめていたのですが、戦争をどう終わらせるかを一番に考えての決定だったのでしょう。

 この鈴木貫太郎さんは、慶応けいおう3年(1868)という江戸えど時代じだいの最後の年にふせで生まれました。お父さんは伏尾の久世くぜ陣屋じんや代官だいかんをされていました。この石碑のあるあたりに家があったようです。海軍かいぐん大学校だいがっこう卒業後そつぎょうご日露にちろ戦争せんそうにも参加しています。

 昭和4年に昭和しょうわ天皇てんのうにぜひにとのぞまれて、侍従じじゅうちょうにつきます。侍従というのは天皇の世話をする役職やくしょくで、その長をするように命じられたのです。その侍従長をされている時の昭和11年2月26日に、「2・26事件」がおこりました。陸軍の一部の兵士へいしが日本の政府のやり方に不満ふまんをもっていたので、当時の首相をはじめ主な大臣だいじんたちをおそったものです。鈴木貫太郎侍従長もじゅうたまぱつを受けましたが奇跡的きせきてきに命は助かりました。

 昭和20年8月15日の終戦しゅうせんの日と同時に内閣ないかく辞職じしょくしています。生涯しょうがい信念しんねんは「軍人ぐんじん政治せいじにかかわるべきではない。」だったようです。

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