阪堺電車の「御陵前」停りゅう所付近で大道から分かれて南西に進むと、紀州街道らしくなります。その紀州街道と阪堺電車との間の道を南に進むと、左側に「本行寺」があります。このお寺に大内義弘のお墓あります。
大内義弘というのは、室町時代の初めごろ(1300年代後半)の武将で、三代将軍の足利義満と応永の乱とよばれる戦いを行った人です。
義満は将軍の力を強くするために、大きな力のあった山名氏を分裂させて力を弱くしようとしました。これを明徳の乱といいますが、この乱で、大内義弘は力を発揮して和泉や紀伊(現在の和歌山県)の守護となりました。また、二つに分かれていた南北朝を一つにするためにも働き、義満に大いに認められていました。
応永四年(1397)、義満が金閣などの別荘地をつくり始めたことへの大内義弘の反発や、他の戦いでの義弘側へのほうびが少なかったこと、朝鮮からの使節の大量の贈り物を義弘がうけとったことなどから義満と義弘との関係がどんどん悪くなり、義満が義弘を殺すのではないかとのうわさが広がりました。
応永六年(1399)、大内義弘は兵をひきいて堺の湊に着きました。義満は使者を送って義弘と話し合いを何度もしましたが、結局は物別れに終わり、ついに義満は義弘を倒すように命令しました。義弘は、堺に矢倉を1000も建てて堺の町を城のようにしてたてこもりました。この時にはすでに、北東南の三方に土居川らしき堀があったのではないかといわれています。
幕府軍はこれを取り囲み、攻めていきました。味方の武将が打ち取られていくにつれて孤立し出し、ついに義弘は幕府軍に打ちとられました。
堺市内には、南旅籠町に大内義弘が建てた妙光寺がわずかにその名残をとどめています。また、先に書いた本行寺には義弘の墓がひっそりと建っています。