97 大内おおうち義弘よしひろおうえいらん

 はんかい電車でんしゃの「御陵前ごりょうまえていりゅう所付近で大道だいどうから分かれて南西に進むと、紀州きしゅう街道かいどうらしくなります。その紀州街道と阪堺電車との間の道を南に進むと、左側に「本行寺ほんぎょうじ」があります。このお寺に大内義弘のおはかあります。

大内義弘の墓:本行寺

 大内義弘というのは、室町むろまち時代じだいの初めごろ(1300年代後半)の武将ぶしょうで、三代将軍しょうぐん足利あしかがよしみつと応永の乱とよばれるたたかいを行った人です。

 義満は将軍の力を強くするために、大きな力のあった山名やまな分裂ぶんれつさせて力をよわくしようとしました。これを明徳めいとくの乱といいますが、この乱で、大内義弘は力を発揮はっきして和泉いずみ紀伊きい(現在の和歌山県わかやまけん)の守護しゅごとなりました。また、二つに分かれていた南北朝なんぼくちょうを一つにするためにもはたらき、義満に大いにみとめられていました。

 応永おうえい四年(1397)、義満が金閣きんかくなどの別荘地べっそうちをつくり始めたことへの大内義弘の反発はんぱつや、他の戦いでの義弘側へのほうびが少なかったこと、朝鮮ちょうせんからの使節しせつ大量たいりょうおくり物を義弘がうけとったことなどから義満と義弘との関係がどんどん悪くなり、義満が義弘をころすのではないかとのうわさが広がりました。

 応永六年(1399)、大内義弘はへいをひきいて堺のみなとに着きました。義満は使者ししゃを送って義弘と話し合いを何度もしましたが、結局けっきょくものわかれに終わり、ついに義満は義弘をたおすように命令しました。義弘は、堺に矢倉やぐらを1000も建てて堺の町をしろのようにしてたてこもりました。この時にはすでに、北東南の三方に居川いがわらしきほりがあったのではないかといわれています。

 幕府軍ばくふぐんはこれを取りかこみ、めていきました。味方の武将が打ち取られていくにつれて孤立こりつし出し、ついに義弘は幕府軍に打ちとられました。

妙光寺

 堺市内には、南旅みなみはたちょうに大内義弘が建てた妙光寺みょうこうじがわずかにその名残なごりをとどめています。また、先に書いた本行寺には義弘の墓がひっそりと建っています。

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