バス停「上」の南東50メートルほどのところに、「上地蔵尊」と彫られたお堂(写真上)が建っています。このお堂にはお地蔵様がまつられています。ここにまつられているお地蔵様は、行基が掘られたと言われています。
668年頃、上村に住んでいた照という女性が、幼い頃の行基の乳母となって幼い行基を育てていました。行基が大人になったときに、照のお世話になったことにむくいるために行基みずからお地蔵様を彫って照に与えました。照はその後尼さんとなってこのお地蔵様をおまつりしました。その後(1580頃)村をおそった悪人が、このお地蔵様を井戸に投げ込んだのです。
正保3年(1644)のある日、井戸から村人を呼ぶ声が聞こえたので井戸をのぞくと、一対の石像がありました。これを引き上げるとお地蔵様で、村人たちはお堂をつくりこれにお地蔵様をおまつりしたのです。それ以後、この村の安全や健康とともに、安産と母乳の出がよくなったといわれています。
次は、東区丈六にある釈迦院です。昔、行基が大野に丈六寺を建てました。その後、戦乱で焼けてしまいましたが、丈六寺の子院だったこのお寺だけが焼け残ったのです。
このお寺のすぐ北には、浄教寺があります。このお寺は、先の行基が建てたとされる丈六寺の子院でした。このお寺も南北朝時代の戦乱で焼けてしまいました。南朝方の楠木正成のけらいの孫がこのお寺の跡地に建てたのがこの浄教寺です。
この浄教寺から800メートルほど西に行くと、関茶屋にある高松墓地に出ます。この墓地には「開山行基大菩薩」と彫られた石碑が建っています。くわしいことはわかりませんが、丈六寺に建っていた石碑ではないかと言われています。また、白鷺幼稚園の西にある墓地には、「行基菩薩」と彫られた台座の上に行基像があります。これも丈六寺にあったものかもしれませんね。このように、堺市内には、行基にかかわる様々な遺物があるのです。