前回に引き続いて古墳を取り上げます。この古墳は、長さがおよそ146メートル、後円部の高さがおよそ12、2メートルの前方後円墳です。五世紀の前半に造られたと考えられています。百舌鳥 古墳群の中では、八番目の大きさです。

この古墳が全国的に有名になったのは、1955年のことです。当時は、第二次世界大戦が終わって一○年がたち、宅地開発が進められていたころです。開発を始めたのは何も使っていない土地でした。古墳もその一つで、現在のように文化財保護という言葉がない時代でしたので、古墳は土地の広さとたくさんの土があったことから目を付けられたのでしょう。この五年前には、長さが160メートルの大塚山古墳が、やはり宅地開発のために土がけずられてその姿を消してしまっています。

当時の若い考古学研究者たちが、このいたすけ古墳を護ろうと立ち上がり、保存運動を始めたのです。いくつかの新聞でも取り上げられたので、この古墳のことが全国の方にも知られるようになりました。そこで堺市が土地開発の業者からこの古墳を買い取ることになり、開発から護られたのです。この運動がきっかけで全国に文化財保護という気持ちがひろがったのです。
さて、この古墳からは、衝角付冑の埴輪が発見されました。この古墳は運動によって護られたことから、この埴輪が堺市の文化財保護のシンボルマークとなっています。
このように堺市の文化財を考える上で大事な古墳となっているのです。
なお、写真でも見えますが古墳の右上に、堀に橋が突き出しています。これは、土を掘る業者が土をけずって運ぶ作業車を通すための木の橋を残したものです。