116 けんのひばり

ひばり伝承地石碑

 ときはま線の津久野つくの中学校東側付近から北北西に、JR阪和線まで道路がつくられました。その途中の神野こうのという地域のあたりに、写真の石碑せきひが建っています。「遣唐のひばり 伝承地でんしょうち」と書かれています。

 「遣唐」って聞きなれない言葉ですが、六年生なら「遣唐使けんとうし」という言葉は、社会科で習っているかもしれませんね。今から1400年ほど前に第一回の遣唐使として、日本からとうの国(昔の中国)にそうや役人たちを送りました。その頃の唐の国は世界でも進んだ国でしたので、日本も唐から多くの新しい制度せいど技術ぎじゅなどを学ぶために、留学りゅうがくそうりゅう学生がくしょう)を送っていたのです。学んだ技術としては「和同開珎わどうかいちん」というわが国最初の貨幣かへいを造ったことがそうですし、現在の奈良や京都の碁盤ごばんの目の街並まちなみや政治の仕組みも、この学んだことからつくられたものです。これは、遣唐使が廃止はいしされる894年まで続きました。

 この野の地域の伝承(言い伝え)によりますと、あるとき、何年も学んだ人たちが遣唐使けんとうしせんで帰ってくるときに、ヒバリを持ち帰りました。そしてそのヒバリを神野の野原にはなしました。ヒバリは空高くまいあがって、良い声でいたので、神野の人たちはその声の美しさに心をうばわれたのです。そのうちに、人たちはヒバリの鳴き声のきそい合いを始めました。そのうちに、ヒバリのことを「遣唐のひばり」と呼び合うようになったということです。

 また、この神野の野原も「けん」と呼ぶようになったということで。

 このように地域の伝承を調べていくとその土地の地名がどのようにして生まれたのか、なぜこんな名前がついていのかもわかるからおもしろいですね。みなさんも、住んで いる土地の地名をさぐっていかれてはどうでしょう。

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