
今回は、歴史といっても新しいものを取り上げましょう。それは「泉北ニュータウン」です。この堺市にとっては新しい街に住んでいる方もたくさんおられるでしょう。
もともとこの地は、泉北丘陵地で農地と森林でした。米作りも盛んなところです。その地が、なぜ多くの人たちが生活する場所に変わったのでしょうか。
昭和20年(1945)の第二次世界大戦後、日本の人口は急に増え始めました。また昭和33年からの堺泉北臨海工業地の開発で、多くの工場が堺の臨海部(海に面したところ)に集まりました。ここで働く多くの人たちが生活する住まいが必要になります。さらに、これからも大阪府の南部が発展するためには、人口が増えていくことも考えなくてはなりません。

そこで、大阪府は、吹田市の千里ニュータウンに続き、ここ泉北丘陵地に新しい大きな街をつくることにしたのです。計画が始まったのは、昭和36年(1961)のことです。石津川に流れこむ和田川などの川筋には、古くからの村があり人たちが暮らしていたので、この川筋の谷間をのぞく泉ヶ丘地区、栂地区、光明池地区の三つの地区の開発が決まりました。堺市内の三地区会わせて15、11平方キロメートル(東京ドーム323個分)の面積で、人口は18万人を考えていました。そこに鉄道、道路、学校、公園、商店など生活にかかわる必要な施設を計画しています。

そして、昭和42年(1967)12月に宮山台地区から入居が始まりました。その後、プールやビッグ・バン、ビッグ・アイなどの施設ができていきますが、人口は16万5千人をピークに減り続けて、現在は12万人ほどの人たちが、暮らしています。
