24 北畠きたばたけ顕家あきいえ戦死せんし

 さらに紀州きしゅう街道かいどうを南に向かいましょう。いし津川づがわをこえてすぐ左に、写真しゃしん供養塔くようとうが立っています。

 時代は、鎌倉かまくら時代じだい(1192~1334年)が終わった後の時代です。武士の時代だった鎌倉かまくら幕府ばくふをたおしたのは醍醐天皇だいごてんのうで、この天皇にしたがった足利あしかがたかうじくすのき正成まさしげなどの武士ぶしたちでした。建武けんむ中興ちゅうこうといって、武士の時代の前にあった天皇の時代にもどしたのです。でも、武士たちにとっては自分たちの考えていた政治せいじではなかったので、足利尊氏は天皇をたおして、新しい武士の世の中をつくろうとしました。建武3(1336)年のことです。

北畠顕家供養塔

 後醍醐天皇にとても信頼しんらいされていた、貴族きぞく武将ぶしょう北畠きたばたけ親房ちかふさは、むすこの北畠顕家を京の都にやって、楠正成や新田にったよしさだらといっしょに足利尊氏とたたかいました。尊氏は九州きゅうしゅうにいったんにげるのですが、顕家が京にいない間にふたたび京にもどってきたので、現在の岐阜県ぎふけん大垣市おおがきしで顕家とたたかいました。

 顕家はまけてしまったためににげ、その後はあちこちでたたかいつづけ、1338年に石津いしづで尊氏と最後さいごのたたかいをしました。ついに顕家はこの石津川でいのちをおとすことになりました。わずか20さいの若さでした。

 この北畠顕家が石津川でなくなられたことを供養くよう(なくなられた人が、安らかにおられるようにお祈りをすること)して、この石津川のほとりに供養塔くようとうを建てたのです。

北畠顕家供養塔説明

 こののち、後醍醐天皇は、北畠親房らとともに吉野山ににげましたが、足利尊氏は、京の都で幕府をひらき政治をおこないました。室町むろまち時代じだいの始まりです。この後も、60年にわたって吉野方と室町幕府方とがいがみあいます。

 そして、この後、慶応けいおう44(1868)年に徳川とくがわ幕府ばくふがたおされるまで、武士の時代は530年間もつづくことになるのです。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です