さらに紀州街道を南に向かいましょう。石津川をこえてすぐ左に、写真の供養塔が立っています。
時代は、鎌倉時代(1192~1334年)が終わった後の時代です。武士の時代だった鎌倉幕府をたおしたのは後醍醐天皇で、この天皇にしたがった足利尊氏や楠正成などの武士たちでした。建武の中興といって、武士の時代の前にあった天皇の時代にもどしたのです。でも、武士たちにとっては自分たちの考えていた政治ではなかったので、足利尊氏は天皇をたおして、新しい武士の世の中をつくろうとしました。建武3(1336)年のことです。
後醍醐天皇にとても信頼されていた、貴族で武将の北畠親房は、むすこの北畠顕家を京の都にやって、楠正成や新田義貞らといっしょに足利尊氏とたたかいました。尊氏は九州にいったんにげるのですが、顕家が京にいない間にふたたび京にもどってきたので、現在の岐阜県大垣市で顕家とたたかいました。
顕家はまけてしまったためににげ、その後はあちこちでたたかいつづけ、1338年に石津で尊氏と最後のたたかいをしました。ついに顕家はこの石津川で命をおとすことになりました。わずか20さいの若さでした。
この北畠顕家が石津川でなくなられたことを供養(なくなられた人が、安らかにおられるようにお祈りをすること)して、この石津川のほとりに供養塔を建てたのです。
こののち、後醍醐天皇は、北畠親房らとともに吉野山ににげましたが、足利尊氏は、京の都で幕府をひらき政治をおこないました。室町時代の始まりです。この後も、60年にわたって吉野方と室町幕府方とがいがみあいます。
そして、この後、慶応4(1868)年に徳川幕府がたおされるまで、武士の時代は530年間もつづくことになるのです。