竹内街道の始まりである大小路筋です。この道は、古くから堺の町を南北に分ける道で、堺のメインストリートともよべる道路でした。
この道路を、かつて明治天皇が通りました。明治10(1877)年2月10日のことです。当時の堺は堺県とよばれていました。明治天皇は馬車で大小路筋に面している熊野小学校に子どもたちの授業のようすを見に来られたのです。堺県内の700もの学校から、成績のいい子どもたち487人を選んで熊野小学校に集めて、授業をしました。それまでにも10日ほどかけてこの小学校で天皇陛下に見せるための練習をしています。。
当日の子どもの思い出の作文には、大小路筋の両側にしいたござの上にすわって天皇をおむかえしたことや、天皇は白いずぼんをはいておられたこと、また、当日はとても寒くてあられがふっていたことまで書かれています。。
明治天皇が、わざわざ堺にまで子どもの学習しているようすを見に来られたのは、それだけ当時の国は、教育の力で人間を育てて、しっかりとした強い国をつくろうとしていたからです。アメリカやヨーロッパの国々からすると、ようやく新しい国らしくなりだしたころだったので、これらの国々と同じようにつきあうためにどうしても国民を育てたかったのでしょう。。
明治天皇が来られたことを記念して、いすや天皇の肖像画など当日に関係するものを保存するために、校内に玉座とよばれる建物をを建てました。しかし、この玉座も古くなって痛みがはげしくなってきたので、明治26年にはこわして木材を売ってしまいました。その後、玉座を残したいという堺の人々の熱意で、使える木材を買いもどして玉座を新たに建てなおしました。明治32年のことです。。
熊野小学校の東南の角に建っている写真の建物を見られたことはありますか。この建物が建てなおされた玉座なのです。明治38年に明治天皇が堺の大浜公園にあった水族館に来られましたが、このときにすわられたいすが、現在の玉座に保管されています。。