34 熊野ゆや小学校しょうがっこう玉座ぎょくざ

 竹内たけのうち街道かいどうの始まりである大小路筋おおしょうじすじです。この道は、古くから堺の町を南北に分ける道で、堺のメインストリートともよべる道路でした。

熊野小学校の玉座

 この道路を、かつて明治天皇めいじてんのうが通りました。明治10(1877)年2月10日のことです。当時の堺は堺県さかいけんとよばれていました。明治天皇は馬車で大小路筋にめんしている熊野小学校に子どもたちの授業じゅぎょうのようすを見に来られたのです。堺県内の700もの学校から、成績せいせきのいい子どもたち487人をえらんで熊野小学校に集めて、授業をしました。それまでにも10日ほどかけてこの小学校で天皇てんのう陛下へいかに見せるための練習れんしゅうをしています。。

 当日の子どもの思い出の作文には、大小路筋の両側にしいたござの上にすわって天皇をおむかえしたことや、天皇は白いずぼんをはいておられたこと、また、当日はとてもさむくてあられがふっていたことまで書かれています。。

 明治天皇が、わざわざ堺にまで子どもの学習しているようすを見に来られたのは、それだけ当時の国は、教育きょういくの力で人間を育てて、しっかりとした強い国をつくろうとしていたからです。アメリカやヨーロッパの国々からすると、ようやく新しい国らしくなりだしたころだったので、これらの国々と同じようにつきあうためにどうしても国民を育てたかったのでしょう。。

玉座:内部

 明治天皇が来られたことを記念きねんして、いすや天皇の肖像しょうぞうなど当日に関係するものを保存ほぞんするために、校内に玉座ぎょくざとよばれる建物たてものをを建てました。しかし、この玉座も古くなっていたみがはげしくなってきたので、明治26年にはこわして木材もくざいを売ってしまいました。その後、玉座を残したいという堺の人々の熱意ねついで、使える木材を買いもどして玉座を新たに建てなおしました。明治32年のことです。。

 熊野小学校の東南の角に建っている写真の建物を見られたことはありますか。この建物が建てなおされた玉座なのです。明治38年に明治天皇が堺の大浜公園にあった水族館すいぞくかんに来られましたが、このときにすわられたいすが、現在の玉座に保管ほかんされています。。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です