今回からしばらく、泉北方面を歩きましょう。泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅から南東の方に向かいます。そこからワシントンヤシが高くそびえている道路を南に歩いて行きましょう。左手に「高倉寺」のかん板が見えてきます。その奥にこの寺はあります。
この寺は、慶雲2(705)年に文武天皇の命で僧行基がつくったことが始まりです。行基といえば、49のお寺をつくられたことは前にも書きました。この寺もその一つです。平清盛の娘(建礼門院徳子)の夫である高倉天皇(1168~1179年)がこの寺に来られ、「大修恵山天王院高蔵寺」の山号と寺号をさずけられたことから、「高倉寺」とよばれるようになりました。
山号の「修恵」というのは「須恵」で、須恵器のことから名づけられたようです。おそらく、このあたりで須恵器という焼物が作られていたのかもしれません。
須恵器というのは、古墳時代(今から1500~1600年前ごろ)ごろから朝鮮から伝わってきた登り窯で焼いたかたい土器のことです。泉北ニュータウンをつくるときに、このあたり一帯をほっていますが、そのときに須恵器のかけらがたくさん出てきています。
高倉寺には、たくさんの子院(高倉寺にふくまれているお寺)がありましたが、織田信長に焼かれてしまいました。天正年間(1573~1592年)には金堂ができ、慶長年間には陶器村に陣屋をおいた小出大隅守がお堂の修理などを行いました。
しかし、明治時代になって廃仏毀釈という仏と神とをきりはなす方針が、お寺をこわす運動として全国に広がり、高倉寺も多くのお寺がこわされて宝積院を残すだけとなりました。境内の土地も多くがうしなわれてしまいました。