前回の法道寺から泉北<rt(せんぼく一号線までもどり、泉ヶ丘方向に歩き、若竹大橋を左折してニュータウンに入っていきましょう。左側の高台に阪和第一泉北病院が見えてきます。この病院の敷地内に「小谷城址」があります。
お城といっても大阪城のような天主閣をイメージされると困ります。泉北ニュータウンを造るために山の東側の半分がけずられて今は小さくなりましたが、この山(高さ80メートル)に寛喜3(1231)年に砦のようなお城が建てられたといわれています。
源頼朝と義経が平清盛にとらえられたとき、清盛の継母である池禅尼がこの二人の命乞いをしたために助かりました。その後、頼朝が成人して平氏をほろぼしたときに、池禅尼の実子頼盛と子孫だけは京に住まわせました。京にいづらくなった頼盛は若松荘に地頭としてやってきました。その子孫の平政有が小谷城を完成させたのです。この城は、東山城、西山城とともにかなえ城とよばれており、平氏一族の小谷氏のお城でした。
南北朝時代に、千早城(金剛山のふもと)であげた南朝方の「のろし」を、この小谷城でうけ、浜の寺(浜寺にあった大雄寺)にさらに「のろし」を送り、大雄寺にいる味方にしらせたのです。
戦国時代は、紀州(現在の和歌山県)根来寺の味方をしたために、このかなえ城(小谷城、東山城、西山城)は、天正3(1575)年の織田信長による根来をほろぼす戦いでおとされました。
現在、この城址の南側のふもとに立派な門構えのある小谷家があります。この家は、江戸時代のはじめごろに小谷城の跡に建てられたのだそうです。 この城からのろしがあげられたほど、とても見晴らしのよいところです。