今回は、堺市内の城址をみましょう。
まずは野田城址です。南海高野線北野田駅から狭山駅に向かってすぐのところにこの碑はあります。この碑付近を中心にこの城はあったようです。
1326年、野田庄地頭だった楠木方の武将の野田四郎正勝が造りました。幕府が楠木正成のこもる千早城をせめたときに、四郎正勝の子の四郎正氏は、村人たちと一夜で白いかべの大きな城があるように白い紙を使って大きく見せて、幕府軍を野田城で食い止めました。しかし、1356年、孫の兵部正康が幕府方に負け、村人も子どもも皆殺しになりました。後に野田村が、なくなった人たちをとむらうために、城内に大悲庵を建てましたが、この大悲庵では泣きさけぶ人たちの声がいつまでも聞こえ続けたとのことです。
もう一つの家原城址の碑は、家原町の大池の北に立っています。この碑の北東方には向ヶ丘団地が広がっています。その団地あたりに家原城があったようです。
永禄8年(1565)、堺の町をささえていた三好長慶のけらいである松永久秀は、長慶の一族の三好三人衆と対立しました。松永方の武将たちは家原城を出て三好三人衆とたたかい、やぶれて岸和田ににげます。永禄11年(1568)には松永方の武将が家原城にふたたび立てこもりました。しかし、三好方の兵にせめられてついに家原城はおちたのです。
堺には、第48回の「小谷城址」といい、いくつも城はありました。しかしいずれも大阪城や姫路城のような天主閣のある大きな城ではありません。砦のような城や屋敷のような城だったでしょう。また日本の歴史の中でも中心にはありませんでした。つねに脇役ばかりです。でもこうして地名として残るほどのものだったのです。