61 新左しんざ衛門えもん

 人物をとりあげましょう。大小路筋おおしょうじすじから二本南の通りに写真の石碑せきひが立っています。「曽呂利新左衛門屋敷やしきあと」と書かれています。この曽呂利新左衛門とは、どんな人なのでしょう。あまり聞いたことがないかもしれません。でも安土あづち桃山ももやま時代じだいの、堺の大事な人物なのです。

曽呂利新左衛門屋敷址

 もとは、かたなさやをつくっていた新左衛門ですが、かれがつくる鞘から刀が「そろり」とぬけ、またもどすと「そろり」と元にもどることから、この「曽呂利新左衛門」という名前がついたといわれています。曽呂利新左衛門は、豊臣とよとみひでよしのおとぎしゅうとしてつかえました。お伽衆というのは、秀吉におもしろい話をしたり、秀吉の知らない他の国のいろいろな情報じょうほうを伝えたりして、いつも秀吉のそばにいたけらいのことです。

 その新左衛門にはたくさんの話が残っています。たとえば、豊臣秀吉のところに曽呂利がやってきて、秀吉の耳のにおいをかがせてほしいとおねがいをしました。秀吉がそれをみとめてやりました。

 ある時、伊達だて政宗まさむねが秀吉のごきげんうかがいにやって来たときのことです。約束やくそくどおり曽呂利は秀吉の耳のにおいをかぎました。それを見ていた政宗は自分のことを秀吉にげ口をしているように感じました。また別の日には毛利もうり輝元てるもとが秀吉のところにやってきました。曽呂利は、先と同じように秀吉の耳のにおいをかぎました。やはり輝元も曽呂利が秀吉に自分の告げ口をしているように感じました。

 それ以来、何人もの大名がたちが、曽呂利のところにやってきて、「よろしくたのみます」と言っていろいろな品物をいて帰ったそうです。それを聞いた秀吉は、とてもおもしろがりました。たいくつをすると、新左衛門をよんで話をさせるのです。そして、曽呂利新左衛門のとんちに感心かんしんをするとともに、いつも新左衛門を大事にそばにおいていたのです。

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