人物をとりあげましょう。大小路筋から二本南の通りに写真の石碑が立っています。「曽呂利新左衛門屋敷址」と書かれています。この曽呂利新左衛門とは、どんな人なのでしょう。あまり聞いたことがないかもしれません。でも安土桃山時代の、堺の大事な人物なのです。
もとは、刀の鞘をつくっていた新左衛門ですが、彼がつくる鞘から刀が「そろり」とぬけ、またもどすと「そろり」と元にもどることから、この「曽呂利新左衛門」という名前がついたといわれています。曽呂利新左衛門は、豊臣秀吉のお伽衆としてつかえました。お伽衆というのは、秀吉におもしろい話をしたり、秀吉の知らない他の国のいろいろな情報を伝えたりして、いつも秀吉のそばにいたけらいのことです。
その新左衛門にはたくさんの話が残っています。例えば、豊臣秀吉のところに曽呂利がやってきて、秀吉の耳のにおいをかがせてほしいとお願いをしました。秀吉がそれをみとめてやりました。
ある時、伊達政宗が秀吉のごきげんうかがいにやって来たときのことです。約束通り曽呂利は秀吉の耳のにおいをかぎました。それを見ていた政宗は自分のことを秀吉に告げ口をしているように感じました。また別の日には毛利輝元が秀吉のところにやってきました。曽呂利は、先と同じように秀吉の耳のにおいをかぎました。やはり輝元も曽呂利が秀吉に自分の告げ口をしているように感じました。
それ以来、何人もの大名がたちが、曽呂利のところにやってきて、「よろしく頼みます」と言っていろいろな品物を置いて帰ったそうです。それを聞いた秀吉は、とてもおもしろがりました。たいくつをすると、新左衛門をよんで話をさせるのです。そして、曽呂利新左衛門のとんちに感心をするとともに、いつも新左衛門を大事にそばにおいていたのです。