むかしの堺1

四ツ池遺跡

縄文から奈良時代までの生活の跡

地図弥生(やよい)遺跡というのは、2000年ぐらい前に、人々が集まって住んでいた跡のことをいいます。この弥生遺跡のなかでも、大きな遺跡として知られている四ツ池遺跡は、左の下の図のななめの線のはいっているところで、今、このあたりに浜寺中学校があります。

この中学校を建てる時と、校舎を建てなおす時に、いろいろ調べました。大むかしの人々が住んでいた「たて穴住居」や、そのころ使われていた土器や、溝などのようすが少しわかりました。

さらに、この中学校の西がわに、第二阪和国道が通ることになったので、前よりはくわしく調べることができました。今までに調べられた遺跡のことも考えあわせてみると、近畿地方で、もっとも大きな遺跡の1つであるばかりでなく、ほかの遺跡と違っていることもわかりました。まだ、調べているのですが、今までにわかったことは、東西が約600メートル、南北が約1000メートル、面積では、およそ60万平方メートルにもなる大きな遺跡です。しかも、2400年ぐらい昔の縄文(じょうもん)時代から奈良時代まで、およそ千年あまりも人々が暮していたことがわかりました。

石碑今までわが国で米がつくられるようになったのは、弥生時代だと考えられていました。ところがこの四ツ池遺跡から出てきた縄文時代の土器のかけらに、写真でもわかるような、

もみ(お米)の跡がついていました。これで縄文時代の終り近くには米があったことがわかりました。

弥生時代には四ツ池の村も大きくなり、今の浜寺中学校がたっている船尾丘陵に、雨の水を下に流す溝をたくさんつくって、たて穴の家に住んで、村をつくっていたように思われます。

また、前ページ上の予想図でもわかるように、弥生時代には人々がだんだんふえてくるにつれて、小さな村が、四ツ池の村からわかれてできてきたようです。お墓も四ツ池の村の北がわだけでなく、海岸近くにもつくられたようです。大むかしの人々は、死んだ人をうめる場所をきめていたようで、今のようなお墓はつくりませんでしたが、つぼなどに入れて、ていねいにほうむったり、四角な溝をほったお墓もみつかっています。お葬式のしかたもすこしわかりました。

古墳時代の遺跡も見つかりましたし、おじいさんの顔(悪い病気をもってくる神様)をすみで書いた奈良時代の土器も発見されました。

このように、四ツ池遺跡は、縄文、弥生、古墳、奈良時代と、だんだんその村が大きくなり、丘の上に家を建て、その外がわの低い所にお墓の場所もつくりました。海で魚をとり、石津川にそった低い土地では米をつくり、石津川の東で高くなった森では、狩りをしていたものと思われます。

 

大仙陵

大きな山のような世界一のお墓

世界一の大きなお墓は、大仙陵とよばれている仁徳天皇(にんとくてんのう)のご陵です。大きな山のようなご陵だというので、大仙陵(むかしは大山陵)という名がつけられたのだろうと考えられています。正しい名は、百舌鳥(もず)耳(みみ)原中(はらなかの)陵(みささぎ)といいます。

下の図のように、エジプトの一ばん大きなピラミットや、中国の奏(しんの)始皇陵(しこうていりょう)よりも仁徳天皇陵がはるかに大きいことがわかります。

このご陵は前方後円墳で、その長さは、486メートル、高さは水面より前方部が34メートル、後円部は36メートル、面積はおよそ464、000平方メートルでその周りには三重の堀が青々とした水をたたえています。(もとは堀が二重でした)その上、この古墳の周りには、15の陪家(ばいちょう)(大きな古墳の周りにつくられた小さな古墳)がある素晴らしい古墳です。

『日本書紀』には仁徳天皇が生きておられる時から、このご陵をつくり始めたということが書かれています。仁徳天皇がなくなられる20年前からつくり始められ、延べ180万人以上の人々が働いたものと考えられています。この頃のわが国は、1つの国としてまとまってきました。天皇を中心とした大和朝廷の力がいかに強大であったか、このご陵でよくわかります。

百舌鳥耳原中陵の百舌鳥耳原という地名について、やはり日本書紀に次のようなおもしろいお話がのせられています。

仁徳天皇が、天皇になられてから67年の10月に、今の大仙陵の近くに来られて、ご陵をつくる場所を決められました。つくり始めた日に、シカが走ってきて、工事をしている人々の前で急にたおれて死にました。勢いよく走っていたシカが急に死んだので、不思議に思って調べてみると、シカの耳からモズが飛び去りました。シカの耳の中は、すっかりモズに食いさかれていたのです。この小さなモズの勇ましい働きをたたえて、この土地を百舌鳥耳原と呼ぶことにしたということです。こういうことから、モズが大阪府の鳥、府鳥として決められています。

明治5年に、このご陵の前方部の一部が崩れて、石の棺や金メッキのかぶと、よろいや刀、ガラスのつぼや皿などがでてきたといわれています。それらは、すぐ元のところに埋められたのですが、その時のようすを書いた絵が残っています。上の図のように、ずいぶんりっぱなものであったようです。前方後円墳ですから、後円部の頂上ちかくに、仁徳天皇をほうむってあるはずです。きっとりっぱに、ていねいにお祭りしてあることと思われますが、それは今のところ全然わかりません。

このようなりっぱな古墳は、後の世まで大切に残しておかねばなりません。堺市では、この大仙陵を中心として、大きな大仙公園をつくり、今この中に図書館、平和塔、博物館、黄梅庵、利休ゆかりの伸庵の茶屋、日本庭園、大仙陵周遊路がつくられています。