前回の住吉神社頓宮から、フェニックス通りをわたって北に向かうと、すぐに開口神社があります。
1615年に新しくつくられた堺の町は、大小路筋で北と南とにわけられていました。北庄と南庄とよばれていました。大小路筋というのは、熊野小学校や市小学校が面している通りのことで、現在では毎年10月に堺祭りでパレードが行われています。この北庄の中心になっていた神社として「菅原神社」がおかれており、南庄の中心になっていた神社が「開口神社」なのです。
この神社は、第57回「船尾・舳松」に出ていた神功皇后が朝鮮半島への戦からもどられたときに、皇后の願いでつくられたことになっています。
むかしは、この神社のあたりを開口村とよんでいましたが、この開口村の「塩土老翁神」と原村の「素盞嗚神」と木戸村の「生国魂神」の3つの神様を合わせておまつりをすることになり、「開口三村大明神」とよばれるようになりました。境内には、現在でも「三村大神宮」とほられた石の常夜灯が建っています。
また、天平18年(746)に僧行基が境内に念仏寺を建て、また僧空海(弘法大師)が宝塔を建てたことから、「大寺」ともよばれて人々から親しまれて願い事をされてきました。しかし、第二次世界大戦で、すっかり焼けてしまい、本殿や拝殿などの建物は戦後に新しく建てられました。
境内には、「大阪府立三国丘高等学校発祥之地」「大阪府立泉陽高等学校発祥之地」「堺の幼稚園教育発祥の地」の石碑が建てられており、堺市の中心的な役割を果たしてきた神社だということが分かります。
境内にはハトがまいおりており子どもたちが楽しそうにえさをやっているのに出会うことでしょう。