76 堺奉行所ぶぎょうしょあと

殿馬場中学校

 はんかい電車でんしゃ花田口はなだぐちていりゅう所でおりて、広い通りを東へ歩くと右側に校舎こうしゃが見えてきます。これが、さかい市立しりつ殿との馬場ばば中学校ちゅうがっこうです。私もこの学校の卒業生そつぎょうせいなんです。殿馬場中学校に通いながら、なぜこんな名前がついているのかふしぎでした。ほかの学校の名前は、っている場所の地名が入っていることが多いのですが、ここはちがいます。なぜ「殿馬場」なんでしょうか。

 

堺奉行所跡の領域図

 実は、江戸えど時代じだい、この場所には堺奉行所がありました。大坂おおさかなつじんけた堺の町をあたらしくするとともに、この町を徳川とくがわ幕府ばくふ直接ちょくせつおさめるためにおかれたのです。ただ、場所は中学校のところだけではなくて、せんよう高等こうとう学校がっこうのあたりも奉行所だったようです。この中に、堺奉行の屋敷やしきがあり、与力よりき同心どうしんの家などの武家ぶけ屋敷もならんでいました。奉行所ですので現代の市役所と警察けいさつしょ裁判所さいばんしょ刑務所けいむしょなどの仕事しごとが行われていました。特に、堺の町にはふねで全国の品物や外国の品物などが運ばれてきていましたので、堺のみなとも、堺の町内のこととともに大事な仕事でした。多い時には与力が10人と同心が50人もいたようです。

 この奉行所のお奉行さま、つまりお殿とのさまたちが乗馬じょうば練習れんしゅうをするための馬場ばばがあったのが、ちょうど現在の殿馬場中学校のあたりだったので、「殿馬場中学校」という名前がついたのです。

堺奉行所跡

 明治めいじ時代になって奉行所はなくなりました。しかし、明治22年(1889)に全国で市制しせい町村制ちょうそんせいがしかれたときに、堺の町も市となり、はじめは開口あぐち神社じんじゃにおかれた役所やくしょが、明治25年には正式に堺奉行所の跡地あとちに建てられました。昭和19年(1944)に現在げんざいの堺東に建てられるまで、市役所がおかれていたのです。

 第二次だいにじ世界せかい大戦たいせんで、完全にこのあたりは焼け出されたために、奉行所があったことはこの石碑せきひを残すだけです。

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