80 海会寺かいえじ

海会寺

 前回の「しょう雲寺うんじ」がつ前にあった「海会寺」です。はんかい電車でんしゃ御陵前ごりょうまえていりゅう所から東へ行くと南宗寺なんしゅうじがあります。その南宗寺の中に海会寺はあります。

 この寺は、元弘げんこう2年(1332)にてられました。そのころは、今の堺区の開口あぐち神社じんじゃ(大寺さん)の西門の前にありましたが、その後、れはててきたために、古渓宗こけいそうちんが、てんしょう13年(1585)に現在げんざいしょう雲寺うんじのところに建てなおしました。

指月庭

 それも大坂おおさかなつじん(1615年)でけてしまい、沢庵たくあん和尚おしょうのおかげで、現在のところにうつって再建さいけんされています。現在でも大寺さんの西門のところに、きんりゅうすいとよんでいる井戸がのこされていますが、この井戸はもともとは海会寺のものだったのです。

 山門さんもんをくぐると、正面に門廊もんろう廊下ろうかがありその途中とちゅうに門がつくられている)があり、左に本堂ほんどう庫裏くりがあります。庫裏というのは、おぼうさんが生活するところです。このお寺では本堂と庫裏とが一つの建物になっており、江戸えど時代じだいの建物としてはたいへんめずらしい建て方になっています。これらの、門廊、本堂、庫裏は国の重要じゅうよう文化ぶんかざい指定していされています。

海会寺:門廊

 また、この寺に保存ほぞんされている重要なものに「丹花たんか詩集ししゅう」があります。これは、海会寺を開いたけん峯士ぽうしどんをはじめ、三十三人の禅宗ぜんしゅうのお坊さんたちが「牡丹」というだいでつくられた漢詩かんしを集めたもので、文和ぶんわ5年(1356)に乾峯が序文じょぶんを書いており、現在の書道しょどうや文学の歴史れきしでも重要なものになっています。

 この寺のお坊さんだった弘大叔こうだいしゅくが、文明16年(1484)から2年間を「しょけん日録にちろく」という日記に表しています。当時の堺の南蛮なんばん貿易ぼうえきでのにぎわいや、さかえていた堺の町のようすがわかるただ一つの資料しりょうとなっています。

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