南海本線「堺」駅をおりて、北東に向かいます。大きな四棟の団地が見えてきます。その団地の南東の角に、写真の石の碑があります。「明治天皇」の文字が見えるでしょうか。
明治10年(1877)に明治天皇が熊野小学校で授業を参観されましたが、その後、この地にやってきました。実は、ここに「堺紡績所」があったのです。
武士の時代である江戸時代から、市民の時代である明治時代になって、わが国は大きく国の方針を変えました。それまでは外国を敵のようにまで見ていましたが、明治になって外国のすぐれた教育や政治、文化、技術などを取り入れて、進んだヨーロッパやアメリカに追いつこうとしました。そのためには、国の産業をおこして豊かな国づくりをし、軍隊をつくって強い国にすることが大事だと考えるようになったのです。その一つが、この紡績所です。
もともとは、慶応2年(1866年、外国の進んだ技術を取り入れていた薩摩藩(現在の鹿児島県)が、堺の戎島に紡績所を造り始めました。しかしもうけにはつながらず、明治5年に国に売りました。そこに明治天皇が見に来られたのです。次の年には民間に払い下げられて川崎紡績所となります。明治22年には泉州紡績会社となって「戎印」の商標がブランド化されるなど成功をとげました。当時は中国や香港にまで進出しています。この泉州紡績会社も明治36年(1903)には岸和田紡績と合併され、ブランド商品をつくり出します。その後、施設は古くなり昭和8年(1933)に取りこわされました。
今は跡かたもありませんが、先の石碑でようやくその紡績所があったことを私たちに知らせてくれます。写真の紡績所の絵は、歴史の教科書などにもよく載っていました。